鎌倉期の創建、臼塚古墳に鎮座、舟形石棺と、重文の短甲形石人
[住所]大分県臼杵市稲田131
[電話]-
臼杵神社(うすきじんじゃ)は、大分県臼杵市にある神社。臼杵五社の一つで、近代社格では村社。通称は「臼塚さま」。御祭神は少彦名命・大己貴命。御朱印の有無は不明。
臼塚古墳の後円部を社殿敷地とし、境内には、その古墳から出土した舟形石棺2基及び短甲形石人2基がある。短甲形石人は国の重要文化財に指定されている。
臼塚古墳は5世紀中頃、全長約87メートルの前方後円墳。県の史跡に指定されている。後円部から大小2基の舟形石棺が発見され、各石棺は、一枚岩をくりぬいて造られ、内面全体に朱が施され、それぞれ2体の人骨が埋葬されていた。
被葬者は、古墳の規模、副葬品、外耳の特徴から、この地域(海部・海人部・白水郷)の支配者層であると考えられている。
副葬品の中には南国産の貝で作られた貝釧や舶載鏡の位至三公鏡、獣帯鏡があり、中国・朝鮮半島やさらに遠い南の島との関わりが見て取れる。
当社は、天孫降臨の際に、臼と杵を降ろした地とする口承があるが、鎌倉時代後期の文保2年(1318年)、託宣により創建されたと伝わる。初めは「臼塚大明神」と称した。
江戸時代の享保14年(1730年)、「臼杵大明神」と改称し、寛政7年(1795年)に獅子舞が始められ、現在も例祭で奉納される。文化8年(1811年)、神道講釈を開催。
天保2年(1831年)と同5年(1834年)には臼杵領内神主20家による湯立神楽が奉納され、安政元年(1854年)に安政南海地震により、境内の石燈が倒壊した。
明治9年(1876年)12月、同市大字稲田字天神の天満社(菅原神)を合併し、稲田神社と改称。大正11年(1920年)、氏子らに社名復旧の動きがあり、現社号となった。
例祭は古来6月19日と11月19日だったが、現在では、4月第2日曜日と12月19日に近い日曜日。子供たちによる獅子を躍らせる太鼓の稽古が1週間前から行われる。
境内社として、稲荷神社(御祭神:倉稲魂命)がある。社殿の前に高くそびえ立っているのが御神木で、樹齢650年ほどのクスノキ。触れると元気が沸いてくるとも。
【ご利益】
病気平癒、医薬、諸願成就、学業・受験合格(公式HP)

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臼杵神社(うすきじんじゃ)は、大分県臼杵市にある神社。臼杵五社の一つで、近代社格では村社。通称は「臼塚さま」。御祭神は少彦名命・大己貴命。御朱印の有無は不明。
臼塚古墳の後円部を社殿敷地とし、境内には、その古墳から出土した舟形石棺2基及び短甲形石人2基がある。短甲形石人は国の重要文化財に指定されている。
臼塚古墳は5世紀中頃、全長約87メートルの前方後円墳。県の史跡に指定されている。後円部から大小2基の舟形石棺が発見され、各石棺は、一枚岩をくりぬいて造られ、内面全体に朱が施され、それぞれ2体の人骨が埋葬されていた。
被葬者は、古墳の規模、副葬品、外耳の特徴から、この地域(海部・海人部・白水郷)の支配者層であると考えられている。
副葬品の中には南国産の貝で作られた貝釧や舶載鏡の位至三公鏡、獣帯鏡があり、中国・朝鮮半島やさらに遠い南の島との関わりが見て取れる。
当社は、天孫降臨の際に、臼と杵を降ろした地とする口承があるが、鎌倉時代後期の文保2年(1318年)、託宣により創建されたと伝わる。初めは「臼塚大明神」と称した。
江戸時代の享保14年(1730年)、「臼杵大明神」と改称し、寛政7年(1795年)に獅子舞が始められ、現在も例祭で奉納される。文化8年(1811年)、神道講釈を開催。
天保2年(1831年)と同5年(1834年)には臼杵領内神主20家による湯立神楽が奉納され、安政元年(1854年)に安政南海地震により、境内の石燈が倒壊した。
明治9年(1876年)12月、同市大字稲田字天神の天満社(菅原神)を合併し、稲田神社と改称。大正11年(1920年)、氏子らに社名復旧の動きがあり、現社号となった。
例祭は古来6月19日と11月19日だったが、現在では、4月第2日曜日と12月19日に近い日曜日。子供たちによる獅子を躍らせる太鼓の稽古が1週間前から行われる。
境内社として、稲荷神社(御祭神:倉稲魂命)がある。社殿の前に高くそびえ立っているのが御神木で、樹齢650年ほどのクスノキ。触れると元気が沸いてくるとも。
【ご利益】
病気平癒、医薬、諸願成就、学業・受験合格(公式HP)

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