樹齢1000年の大樟は平安期の現在地遷座記念植樹、宇佐行幸会に関係する古社
[住所]大分県国東市武蔵町大字三井寺
[電話]-
椿八幡神社(つばきはちまんじんじゃ)は、大分県国東市武蔵町にある神社。近代社格では県社。宇佐神宮の行幸会に関わりのある神社として知られる。御朱印の有無は不明。
宇佐神宮の分祠で、奈良時代の天平神護元年(765年)10月8日に神託によって御在所山に鎮座したという。
天平神護元年は行幸会の始まりの年ともされ、それに合わせて勧請・建立されたとも考えられる。同じような由緒を持つ神社として、同市内に八坂神社や、宇佐市に妻垣神社がある。
その後260年間に数度の野火に遭い、平安時代の治安3年(1033年)の火災を機に、現在地に社殿を造営し、御神体を安置した。
御神木の樟は、この現在地への遷座の際の記念植樹であると伝えられている。樹齢1000年以上、樹高30メートルの大樟として知られる。
鎌倉時代以降、当地の領主は崇敬が厚く、特に今市城主の武蔵田原氏は社殿の造営に意を注いだとされる。
宇佐神宮行幸会は、当初は4年に一度、その後6年に一度執行されたが、その後中絶。江戸時代に細川忠興が元和2年(1616年)、再興したが、その後行われていない。
江戸時代の領主・松平氏は、藩主自ら施主となり、豪商・豪農・庄屋の寄進により造営・修復工事を行い、庶民は労働奉仕をしたと伝わる。
もともと33カ村の鎮守であったが、江戸前期には25カ村となり、江戸末期には18カ村となって現在に至っている。昭和13年(938年)、県社に昇格した。
境内には石燈篭や小祠などがたくさんある。小祠の一つに、菅原道真を祀る天神社があるとされるが、特定は難しい状況と言われている。
境内に入ってすぐのところに、馬屋がある。中には白馬の木像が安置されている。境内右奥の石段を降りると小さなアーチ状の石橋がある。
【ご利益】
厄災除け、地域・家内安全

【関連記事】
・宇佐神宮の行幸会 - 奈良朝からの4年-6年に1度の特殊神事、2年間の準備と5日間の巡幸
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天平神護元年は行幸会の始まりの年ともされ、それに合わせて勧請・建立されたとも考えられる。同じような由緒を持つ神社として、同市内に八坂神社や、宇佐市に妻垣神社がある。
その後260年間に数度の野火に遭い、平安時代の治安3年(1033年)の火災を機に、現在地に社殿を造営し、御神体を安置した。
御神木の樟は、この現在地への遷座の際の記念植樹であると伝えられている。樹齢1000年以上、樹高30メートルの大樟として知られる。
鎌倉時代以降、当地の領主は崇敬が厚く、特に今市城主の武蔵田原氏は社殿の造営に意を注いだとされる。
宇佐神宮行幸会は、当初は4年に一度、その後6年に一度執行されたが、その後中絶。江戸時代に細川忠興が元和2年(1616年)、再興したが、その後行われていない。
江戸時代の領主・松平氏は、藩主自ら施主となり、豪商・豪農・庄屋の寄進により造営・修復工事を行い、庶民は労働奉仕をしたと伝わる。
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境内には石燈篭や小祠などがたくさんある。小祠の一つに、菅原道真を祀る天神社があるとされるが、特定は難しい状況と言われている。
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