鉄砲小路や美風が今に伝わる、熊本府の鬼門に勧請された地鉄砲の守護神
[住所]熊本県菊池郡菊陽町原水5091
[電話]096-232-2097

蘇古鶴神社(そこつるじんじゃ)は、熊本県菊池郡菊陽町にある神社。御朱印の有無は不明。

寛永12年(1635年)、肥後熊本藩初代藩主細川忠利が熊本府の鬼門に当たるこの地に、地鉄砲の集落をもうけ、その守護神かつ鬼門の厄祓いのために勧請したもの。

御祭神は阿蘇一宮であると健磐竜命(健磐龍命)、阿蘇二宮である比咩大神(阿蘇都比咩命)。阿蘇神社か、それに関係する神社の御分霊を勧請したものか。

社名の由来は、忠利が鷹狩りでこの地に来た時、鶴が2羽舞い降りてきたので、将来にわたり社号を阿蘇の蘇の字を鶴の上にかぶせて「蘇古鶴宮」としたと伝わる。

地鉄砲は地筒とも呼ばれ、忠利の命により、非常時の軍備強化、未開拓地の開拓、当時の最大の社会問題である浪人対策のために新設されたもの。

月に5日間は城中に出仕し、その他は武術の練磨と農耕に従事、一旦事ある時は鉄砲組として主君に奉仕するのが任務だった。

寛永14年(1637年)の島原の乱では56人が、その他、長州征討の小倉戦争、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いには101人が参戦している。実績ある開拓・戦闘部隊である。

現在も組員が相互に協力し合い、助け合って諸事に当たる旧来の美風が受け継がれており、総代以下の役職が完備された組織として成立しているという。

近くには鉄砲小路の古い地名が残り、そこにはしっかりと生垣が整備され、祝日などにはこの通りに面した家々がすべて自主的に国旗を掲げ、「日の丸の道」ができる。

その開拓地は、集落の北約50メートルを流れる堀川周辺。上流を瀬田上井手と言い、寛永7年(1630年)、肥後熊本藩第2代藩主加藤忠広によって着工された。

加藤氏改易となって中断したが、寛永11年(1634年)に再開され、3年後に完成した。地鉄砲のみならず、この開墾によって、多くの水田が切り開かれ、新しい村々が誕生したという。

当社には町内で唯一の楼門がある。銅板葺き2層建築で、奥行3.06メートル、間口3.99メートル。門内には門神として奇岩窓神・豊岩窓神を祀る。元禄9年(1696年)には天満宮が併設された。

境内には産神社がある。

【ご利益】
地域・家内安全、五穀豊穣・商売繁盛
蘇古鶴神社 - 鉄砲小路や美風が今に伝わる、熊本府の鬼門に勧請された地鉄砲の守護神
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