甲斐宗運の命名、恋一路神社とも読む恋愛神社、阿蘇神社末社の柳本大明神
[住所]熊本県上益城郡山都町浜町251
[電話]0967-72-2377
小一領神社(こいちりょうじんじゃ/こいちろじんじゃ)は、熊本県上益城郡山都町にある神社。恋一路神社とも呼ばれ、良縁・縁結びなど恋愛の神としても有名。参拝すれば、御朱印を頂ける。
平安時代の寛仁2年(1018年)、阿蘇友仲により、宮原(浜町)に阿蘇神社の末社として、横に大きな柳の木があったため、柳本大明神(やなぎもとだいみょうじん)の名で創建されたと伝わる。
御祭神は、初代神武天皇の孫にあたる健磐龍命、その妃の阿蘇津媛命(阿蘇都比咩命)、二人の子である國造速甕玉命(速瓶玉命)の3柱。速瓶玉命は阿蘇神社の十一宮で、国造神社の御祭神。
天文5年(1536年)、大宮司阿蘇惟豊は嫡男の千寿丸(のちの惟将)を17歳で初陣総大将に奉じ、御船城主、御船房行の謀反に対して、数千の軍勢を率いて出陣する。
同年11月10日、柳本大明神で戦勝を祈願して、「小型の鎧一領」を奉納し、出陣式を境内で行った。この時、庄屋の井手清右衛門尉豊宣が、酒肴を整えて、赤飯の握飯を千寿丸初陣の祝いとして献上した。
千寿丸の介添え役だった甲斐親直は、扇を開いて立ち上がり、「いで(井手)やいで、御船の城の敵の首わが手の内に握飯かな」と舞ったと伝わる。
親直(後の宗運)が、房行を打ち滅ぼし凱旋すると、惟豊は神恩に感謝し、社殿を造営して80町を社領として寄付した上、社号を「小一領大明神」と改称した。
天正13年(1585年)、阿蘇家が島津氏の侵略を受け、その後、豊臣秀吉の九州征伐で島津家は追い払われたが、阿蘇家の所領は復帰することがなかった。
天正16年(1588年)、佐々成政に続いて、小西行長が肥後半国の国主となると、キリシタン家臣だった結城弥平次が矢部城(愛藤寺城)の城代となり、当社もほかの神社仏閣と同様に焼き払われたと伝わる。
慶長5年(1600年)、加藤清正が国主となり、慶長18年(1613年)に初代矢部郷の大庄屋に任命された、井手玄畜充政次により元和7年(1621年)に現在地に再建された。
当社にほど近く、現在では山都町のシンボルともなっている通潤橋(つうじゅんきょう)は、当社の境内の橋で模型を造り、検証が進められたもの。
その後惣庄屋の布田保之助が、嘉永7年(1854年)に肥後の石工たちの持つ技術を用いて建設された。日本最大級の石造りアーチ水路橋で、放水景色が圧巻。
今や通潤橋は、国の重要文化財に指定されている。当社がその建築を担った起源ともいえる。なお、布田翁は同じ町内の布田神社で祀られている。
例祭は10月9日で、秋季例大祭。9月第1土・日曜日には八朔祭が行われる。2018年に鎮座から1000年目の節目、一千年祭を予定している。
「こいちりょう」という名前、次第に「恋一路」となり、恋の成就神社として親しまれる。本殿の周りには「ハート」のマークがちりばめられている。
境内にはご縁水があり、手水となっている。境内の周りには、5つのハートマークがあり、宝探し気分で楽しめる。
【ご利益】
良縁、縁切り、家内安全、厄災除け(公式HP)

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[電話]0967-72-2377
小一領神社(こいちりょうじんじゃ/こいちろじんじゃ)は、熊本県上益城郡山都町にある神社。恋一路神社とも呼ばれ、良縁・縁結びなど恋愛の神としても有名。参拝すれば、御朱印を頂ける。
平安時代の寛仁2年(1018年)、阿蘇友仲により、宮原(浜町)に阿蘇神社の末社として、横に大きな柳の木があったため、柳本大明神(やなぎもとだいみょうじん)の名で創建されたと伝わる。
御祭神は、初代神武天皇の孫にあたる健磐龍命、その妃の阿蘇津媛命(阿蘇都比咩命)、二人の子である國造速甕玉命(速瓶玉命)の3柱。速瓶玉命は阿蘇神社の十一宮で、国造神社の御祭神。
天文5年(1536年)、大宮司阿蘇惟豊は嫡男の千寿丸(のちの惟将)を17歳で初陣総大将に奉じ、御船城主、御船房行の謀反に対して、数千の軍勢を率いて出陣する。
同年11月10日、柳本大明神で戦勝を祈願して、「小型の鎧一領」を奉納し、出陣式を境内で行った。この時、庄屋の井手清右衛門尉豊宣が、酒肴を整えて、赤飯の握飯を千寿丸初陣の祝いとして献上した。
千寿丸の介添え役だった甲斐親直は、扇を開いて立ち上がり、「いで(井手)やいで、御船の城の敵の首わが手の内に握飯かな」と舞ったと伝わる。
親直(後の宗運)が、房行を打ち滅ぼし凱旋すると、惟豊は神恩に感謝し、社殿を造営して80町を社領として寄付した上、社号を「小一領大明神」と改称した。
天正13年(1585年)、阿蘇家が島津氏の侵略を受け、その後、豊臣秀吉の九州征伐で島津家は追い払われたが、阿蘇家の所領は復帰することがなかった。
天正16年(1588年)、佐々成政に続いて、小西行長が肥後半国の国主となると、キリシタン家臣だった結城弥平次が矢部城(愛藤寺城)の城代となり、当社もほかの神社仏閣と同様に焼き払われたと伝わる。
慶長5年(1600年)、加藤清正が国主となり、慶長18年(1613年)に初代矢部郷の大庄屋に任命された、井手玄畜充政次により元和7年(1621年)に現在地に再建された。
当社にほど近く、現在では山都町のシンボルともなっている通潤橋(つうじゅんきょう)は、当社の境内の橋で模型を造り、検証が進められたもの。
その後惣庄屋の布田保之助が、嘉永7年(1854年)に肥後の石工たちの持つ技術を用いて建設された。日本最大級の石造りアーチ水路橋で、放水景色が圧巻。
今や通潤橋は、国の重要文化財に指定されている。当社がその建築を担った起源ともいえる。なお、布田翁は同じ町内の布田神社で祀られている。
例祭は10月9日で、秋季例大祭。9月第1土・日曜日には八朔祭が行われる。2018年に鎮座から1000年目の節目、一千年祭を予定している。
「こいちりょう」という名前、次第に「恋一路」となり、恋の成就神社として親しまれる。本殿の周りには「ハート」のマークがちりばめられている。
境内にはご縁水があり、手水となっている。境内の周りには、5つのハートマークがあり、宝探し気分で楽しめる。
【ご利益】
良縁、縁切り、家内安全、厄災除け(公式HP)

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