熊本のパワースポット、阿蘇大宮司家代々の元服式、4月の例祭には少女神楽
[住所]熊本県上益城郡山都町男成519
[電話]0967-72-1158
男成神社(おとこなりじんじゃ)は、熊本県上益城郡山都町にある神社。近代社格では郷社。主祭神は天照皇大神・神武天皇・神八井耳命。阿蘇十二神・須佐之男命・稲田姫神を配祀する。御朱印の有無は不明。
社伝によれば、初代神武天皇76年、神武天皇の孫で、阿蘇神社の主祭神である健磐龍命が行宮を建て皇祖を祀ったことが起こりであるという。
第34代舒明天皇12年(640年)、阿蘇大宮司が阿蘇十二神を勧請し社殿を建て、阿蘇神社の分社とした。
建久3年(1192年)には、祇園宮を相殿に奉斎し、祇園宮と称した。
後堀河天皇の貞応元年(1222年)6月15日、岩尾城主の阿蘇惟次が、長男の惟義の加冠元服の式を当社の神前で行ったため、男成宮と改称した。以来、阿蘇大宮司家では代々当社で元服式が行われた。
後土御門天皇の応仁2年(1468年)、正三位の惟忠大宮司の時、霜月15日の祭典には、流鏑馬、相撲33番の神楽を奉納したと伝わる。
8月の五穀成就祭には、甲佐郷・宮内まで神幸、文明9年(1477年)9月には惟忠の出陣に際して太刀および小剣を奉納した。
往事、肥後八社の一つに数えられ、宇城三郡の惣鎮として、神領は250町を有したという。正親町天皇の元亀3年(1572年)の再建の際には、阿蘇領内各郡の力で修造された。
慶長年間(1596年-1615年)、小西領となり、焼き討ちに遭って、社殿や宝物などがすべて焼失、社領は没収され祭儀も衰えた。
加藤清正の入国後に再建され、馬場先の老松は、清正のお手植えとも伝わっていたが、先年落雷の被害で枯死した。
藩主が細川氏となっても崇敬され、家紋入りの幕、提灯などが奉納され、現在神殿に掲げてある額は、細川10代藩主の自筆で奉納されたもの。
明治8年(1875年)、郷社に列し、明治40年2月には神饌幣帛料共進神社に指定された。現在は熊本有数のパワースポットとしても知られている。
例祭は4月3日・4日。少女神楽や芝居が奉納される。夏祭りと、子供相撲が奉納される秋祭りがある。近くには男成バス停留所がある。
【ご利益】
諸願成就、厄災除け、家内安全
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男成神社(おとこなりじんじゃ)は、熊本県上益城郡山都町にある神社。近代社格では郷社。主祭神は天照皇大神・神武天皇・神八井耳命。阿蘇十二神・須佐之男命・稲田姫神を配祀する。御朱印の有無は不明。
社伝によれば、初代神武天皇76年、神武天皇の孫で、阿蘇神社の主祭神である健磐龍命が行宮を建て皇祖を祀ったことが起こりであるという。
第34代舒明天皇12年(640年)、阿蘇大宮司が阿蘇十二神を勧請し社殿を建て、阿蘇神社の分社とした。
建久3年(1192年)には、祇園宮を相殿に奉斎し、祇園宮と称した。
後堀河天皇の貞応元年(1222年)6月15日、岩尾城主の阿蘇惟次が、長男の惟義の加冠元服の式を当社の神前で行ったため、男成宮と改称した。以来、阿蘇大宮司家では代々当社で元服式が行われた。
後土御門天皇の応仁2年(1468年)、正三位の惟忠大宮司の時、霜月15日の祭典には、流鏑馬、相撲33番の神楽を奉納したと伝わる。
8月の五穀成就祭には、甲佐郷・宮内まで神幸、文明9年(1477年)9月には惟忠の出陣に際して太刀および小剣を奉納した。
往事、肥後八社の一つに数えられ、宇城三郡の惣鎮として、神領は250町を有したという。正親町天皇の元亀3年(1572年)の再建の際には、阿蘇領内各郡の力で修造された。
慶長年間(1596年-1615年)、小西領となり、焼き討ちに遭って、社殿や宝物などがすべて焼失、社領は没収され祭儀も衰えた。
加藤清正の入国後に再建され、馬場先の老松は、清正のお手植えとも伝わっていたが、先年落雷の被害で枯死した。
藩主が細川氏となっても崇敬され、家紋入りの幕、提灯などが奉納され、現在神殿に掲げてある額は、細川10代藩主の自筆で奉納されたもの。
明治8年(1875年)、郷社に列し、明治40年2月には神饌幣帛料共進神社に指定された。現在は熊本有数のパワースポットとしても知られている。
例祭は4月3日・4日。少女神楽や芝居が奉納される。夏祭りと、子供相撲が奉納される秋祭りがある。近くには男成バス停留所がある。
【ご利益】
諸願成就、厄災除け、家内安全
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