神武天皇のお手植え後継の樹齢1000年を超す夫婦銀杏が有名、鹿児島大隅の式内社
[住所]鹿児島県霧島市福山町福山2437
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宮浦宮(みやうらぐう)は、鹿児島県霧島市福山町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 大隅国 囎唹郡「宮浦神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

鎮座地は大隅半島の西の付け根の、姶良カルデラの火口壁が鹿児島湾に迫る形で形成する傾斜地の平坦部に位置し、鹿児島湾を挟んで桜島に正対する景勝地となっている。

当宮から北北西3キロ弱に若尊鼻(わかみこのはな)という岬があるが、これは初代神武天皇が幼少期を当地で過ごしたという故事に基づくものとされる。

神武天皇と、天神七代12柱、地神五代5柱の計18柱を祀る。天神七代12柱はいわゆる神世七代

江戸時代中期の宝暦2年(1751年)以前のことは不詳。

当宮御祭神は麻と苧の栽培、正月25日の祭日以前の機織、同じく祭日以前に灸をすることの3点を嫌うので氏子もそれら行為を禁忌としていた。

しかしそれでは生活に差し障りもあるため、神慮を宥めてこれを無くそうと諮り、宝暦2年(1751年)4月に京の吉田家へ神位の授与を願った。

同年12月18日、式内社である由緒によって極位(正一位)の宗源宣旨と幣帛が下され、以来、「宮浦大明神」と称された。

なお、この時同時に桃園天皇からの勅許も下され、薩摩藩領内の神社では神位授与に際して勅許の下された唯一の神社であったという。

勅許により御幣十三体を内陣に納め、「正一位宮浦大明神」の勅額を正面鳥居に掲げたという。社殿は寛政3年(1791年)の大火で類焼し、当時の島津藩26代藩主斉宣が再興したと伝わる。

明治6年(1873年)には県社に列した。明治10年(1977年)の西南戦争で被災、斉宣が再興したとされる社殿は消失している。

明治以前は神武天皇が東征に発したという正月25日を祭日としたが、後に3月10日を例祭日とし、現在は4月3日となっている。

11月23日に銀杏祭りがある。境内の夫婦銀杏は神武天皇が東遷に出立した際にお手植えになったものを後世植え継いできたものとされる。

右側の木には寛正3年の大火の火傷跡が、また左の木には西南戦争の砲弾痕が残っている。福山のイチョウとして、県の天然記念物に指定されている。

しかし、その樹勢いまだ衰えず、形・大きさともに類似し、樹齢は1000年を越えているとされる。

春先には樹幹に若葉を付け、秋は黄葉、初冬になると境内が黄色のじゅうたんを敷きつめたように風情がある。

【ご利益】
旅行・交通安全、平安安寧、リフレッシュ
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宮浦宮の御朱印