「日本三奇」謎の巨大な石造物「石の宝殿」が御神体、10月に秋祭り
[住所]兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
[電話]079-447-1006

生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市の宝殿山山腹にある神社。近代社格では県社。石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を御神体とする。参拝すれば、御朱印を頂ける。

石の宝殿は、宮城県の鹽竈神社の境外末社である御釜神社の神竈、宮崎県西諸県郡高原町の霧島東神社の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。

横6.4メートル、高さ5.7メートル、奥行7.2メートルの巨大な石造物。水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる。

石乃宝殿とも書かれるこの石造物は、誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていないが、現在は国の史跡に指定されている。

当社は、大穴牟遅命少毘古那命を主祭神とし、大国主大神、生石子大神、粟嶋大神、高御位大神を配祀する。

社伝では、第10代崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していた時、石の宝殿に鎮まる二神が天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地で創祀されたという。

石の宝殿について、『播磨国風土記』大国里の条には「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。

伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている」という記述がある。

石の宝殿は8世紀以前からあったことになるが、当社は『延喜式』神名帳や国史に掲載されておらず、『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見であるとされる。

『播州石宝殿略縁起』には、下記のようにある。
神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った。
阿賀の神とは英賀神社御祭神だろうか。ただし同社御祭神は、当社御祭神の子に当たる。

第13代成務天皇11年、羽後国飽海郡平田村生石(現 山形県酒田市大字生石)に当社の分社が作られた。

天正7年(1579年)、羽柴秀吉が三木合戦の折、神吉城攻略のために当社を陣所として貸与するよう申し出たが、拒否されたために焼き討ちを行った。

焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いの時に西軍石田三成方の勇将大谷吉継が陣鐘として使用した。敗戦の結果、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進している。

鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれている。

例祭は4月第2日曜日だが、毎年10月の3週間目の土・日曜日に秋季例祭が行われる。

秋季例祭では、播州の秋祭り同様に、「よーいやさー」というかけ声で、太鼓入りの神輿「やっさ」が入って来て、竹割りや神輿の喧嘩などが行われる。

能楽堂では高砂市にある「島」という地区が獅子舞を披露する。他にも、能が披露されたり、猿田彦が氏子を追いかけまわる神事もある。

なお、岸の屋台は反り屋根型布団屋台であり、これは曽根天満宮の氏子である曽根北之町から譲り受けたもの。また、平津の屋台は神輿型屋台である。

なお、当社は旧印南郡の国恩祭の一社で、当社でも11年に一度斎行される。次回予定は2022年。

【ご利益】
平穏安寧、病気平癒、諸願成就(公式HP
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