持統天皇「三河行幸」の地、手筒花火の発祥地で7月には豊橋祇園祭
[住所]愛知県豊橋市関屋町2
[電話]0532-52-2553
吉田神社(よしだじんじゃ)は、愛知県豊橋市関屋町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。近代社格では県社。
境内に「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」の碑があり、手筒花火の発祥地で知られ、毎年7月中旬に行われる豊橋祇園祭が有名。
持統上皇の「三河行幸」の折、頓宮が設営された地に、大宝2年(702年)、上皇の崩御後、上皇を奉斎して創祀。当初は御祭神は持統天皇だった。
江戸期においても、『和漢三才図会』に「天皇社祭神持統天皇」とあり、社伝にも江戸期に持統上皇の祭典が行われたとある。
平安時代後期、天治元年(1124年)に疫病流行を封じるために神主の横地氏が天台宗の感神院祇園社(現 八坂神社)より祇園精舎の守護神である牛頭天王を勧請、後に「牛頭天王社」「吉田天王社」「天王社」と呼ばれるようになった。
治承2年(1178年)、源頼朝が伊豆に配流の途上、雲谷の普門寺に逗留した折、鈴木十郎元利を名代として当社に参拝させた。文治2年(1186年)にも、頼朝は石田次郎為久に代参させた。
そして建久年間(1190年-1199年)には三河守護安達藤九郎盛長に命じ、当社社殿を造営させたと伝わる。室町時代には社領10貫文を領した。
永正3年(1507年)、吉田城築城の後に牧野古白が当社を城の鎮守として社殿を再建。天文16年(1548年)に今川義元が御輿を寄進し、この時から神輿渡御が始まった。
御輿の中の棟札には太原雪斎の筆で「天下太平、国家安泰、万民和楽、四辺帰来、大旦那源義元」と書かれていた。天文16年(1548年)には今川義元は、社領6貫100文を加増している。
なお手筒花火には諸説あるが、永禄3年(1560年)に今川家の吉田城代、大原肥前守の当社への奉納に始まるとされている。
天正6年(1579年)、酒井忠次が社殿を修復し、拝殿を造営した。文禄元年(1593年)池田輝政が社殿を修築。慶長6年(1602年)、徳川家康は改めて社領30石を朱印をもって寄進した。
徳川家光薨去の際には祭りは行われたが花火は控えられている。江戸期には歴代吉田藩主から3回の改築、13回の修築を受けた。
天保6年(1837年)に正一位の神階を受けた。江戸期から当社の祭礼は名高く、大日本神事見立数望では東の前頭42枚目に「吉田まつり」と記されている。また諸国御祭禮番附では東の37枚目に「吉田之祭」と記されている。
明治維新を経て、かつて天王社を名乗ったものが、神仏分離で現社号に改称、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を御祭神とする神社となった。
現在の氏子は豊橋市内の八ヶ町(関屋、上伝馬、萱町、本町、三浦、指笠、札木、西八町)からなる。大筒花火は町内会が自分で手作りし、それを神輿がわりに担いで練り歩き奉納する。
例祭は7月第3金・土・日曜日で、豊橋三大祭の一つ「祇園祭」。江戸期には天王祭とも呼ばれ、金曜日に手筒花火、土曜日に打ち上げ花火がある。
日曜日が本祭で、神輿渡御の行列は頼朝行列とも呼ばれ、源頼朝をしのぶものとされ、鎌倉・平安時代の服装で練り歩く。
境内社には、稲荷社(宇迦之魂命)、伊雑社(伊佐波止美命)、御食社(宇迦之魂命・玉柱屋比売命)がある。
【ご利益】
厄災除け、病気平癒、病魔退散

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境内に「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」の碑があり、手筒花火の発祥地で知られ、毎年7月中旬に行われる豊橋祇園祭が有名。
持統上皇の「三河行幸」の折、頓宮が設営された地に、大宝2年(702年)、上皇の崩御後、上皇を奉斎して創祀。当初は御祭神は持統天皇だった。
江戸期においても、『和漢三才図会』に「天皇社祭神持統天皇」とあり、社伝にも江戸期に持統上皇の祭典が行われたとある。
平安時代後期、天治元年(1124年)に疫病流行を封じるために神主の横地氏が天台宗の感神院祇園社(現 八坂神社)より祇園精舎の守護神である牛頭天王を勧請、後に「牛頭天王社」「吉田天王社」「天王社」と呼ばれるようになった。
治承2年(1178年)、源頼朝が伊豆に配流の途上、雲谷の普門寺に逗留した折、鈴木十郎元利を名代として当社に参拝させた。文治2年(1186年)にも、頼朝は石田次郎為久に代参させた。
そして建久年間(1190年-1199年)には三河守護安達藤九郎盛長に命じ、当社社殿を造営させたと伝わる。室町時代には社領10貫文を領した。
永正3年(1507年)、吉田城築城の後に牧野古白が当社を城の鎮守として社殿を再建。天文16年(1548年)に今川義元が御輿を寄進し、この時から神輿渡御が始まった。
御輿の中の棟札には太原雪斎の筆で「天下太平、国家安泰、万民和楽、四辺帰来、大旦那源義元」と書かれていた。天文16年(1548年)には今川義元は、社領6貫100文を加増している。
なお手筒花火には諸説あるが、永禄3年(1560年)に今川家の吉田城代、大原肥前守の当社への奉納に始まるとされている。
天正6年(1579年)、酒井忠次が社殿を修復し、拝殿を造営した。文禄元年(1593年)池田輝政が社殿を修築。慶長6年(1602年)、徳川家康は改めて社領30石を朱印をもって寄進した。
徳川家光薨去の際には祭りは行われたが花火は控えられている。江戸期には歴代吉田藩主から3回の改築、13回の修築を受けた。
天保6年(1837年)に正一位の神階を受けた。江戸期から当社の祭礼は名高く、大日本神事見立数望では東の前頭42枚目に「吉田まつり」と記されている。また諸国御祭禮番附では東の37枚目に「吉田之祭」と記されている。
明治維新を経て、かつて天王社を名乗ったものが、神仏分離で現社号に改称、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を御祭神とする神社となった。
現在の氏子は豊橋市内の八ヶ町(関屋、上伝馬、萱町、本町、三浦、指笠、札木、西八町)からなる。大筒花火は町内会が自分で手作りし、それを神輿がわりに担いで練り歩き奉納する。
例祭は7月第3金・土・日曜日で、豊橋三大祭の一つ「祇園祭」。江戸期には天王祭とも呼ばれ、金曜日に手筒花火、土曜日に打ち上げ花火がある。
日曜日が本祭で、神輿渡御の行列は頼朝行列とも呼ばれ、源頼朝をしのぶものとされ、鎌倉・平安時代の服装で練り歩く。
境内社には、稲荷社(宇迦之魂命)、伊雑社(伊佐波止美命)、御食社(宇迦之魂命・玉柱屋比売命)がある。
【ご利益】
厄災除け、病気平癒、病魔退散

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