承久の乱で配流された後鳥羽法皇「御火葬塚」に隣接、御製の「承久楽」奉納
[住所]島根県隠岐郡海士町海士1784
[電話]08514-2-0464
隠岐神社(おきじんじゃ)は、島根県隠岐郡海士町、隠岐諸島の島前、中ノ島にある神社。近代社格では県社。御祭神は後鳥羽天皇である。参拝すれば、御朱印を頂ける。
承久3年(1221年)、承久の乱によって隠岐へは、当地の源福寺を行在所とし、旧在庁官人で海士郡の公文、田荘両職を兼帯した村上氏が身辺警護と監視にあたっていた。
19年後の延応元年(1239年)2月22日に崩御、同25日に源福寺裏山で火葬にされ、遺灰を埋納して火葬塚を営んだ。
万治元年(1658年)、松江藩主松平直政が廟殿を造営し、明治まで維持に努めたが、明治2年(1689年)に廃仏毀釈の影響で源福寺は一旦廃寺となった。
海士町の後鳥羽院資料館に所蔵される江戸末期の様子を描いた絵図には、この火葬塚の場所に「後鳥羽院神社」が描かれており、当時島民によりここで祭祀が行われていたとされる。
しかし、明治6年(1873年)、法皇の御霊を大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に奉遷したため、翌7年(1874年)に後鳥羽院神社も取り払われた。なお、神社が取り払われての後も、祭祀が続けられたとされる。
後に、この神社を中心とした旧源福寺境内地は、後鳥羽天皇の隠岐の御陵「御火葬塚」とされた。
当社は、昭和15年(1940年)の紀元二千六百年の奉祝事業の一つとして島根県が創建したもので、同14年に完成し、同18年には県社に列せられた。鎮座地は「御火葬塚」に隣接している。
なお、神社が完成した昭和14年(1939年)は、法皇の崩御700年に執り行われた「後鳥羽天皇七百年祭」の年でもあった。
例祭は、春の例大祭が4月14日、秋の例大祭が10月14日。後鳥羽天皇の下記の御製(和歌)に独自の曲と振りを付した町無形文化財「承久楽」が奉納される。
銘来国光の太刀をはじめ、多くの刀剣を所蔵している。
【ご利益】
開運招福、縁結び、交通安全、学業・受験合格など(公式HP)

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[電話]08514-2-0464
隠岐神社(おきじんじゃ)は、島根県隠岐郡海士町、隠岐諸島の島前、中ノ島にある神社。近代社格では県社。御祭神は後鳥羽天皇である。参拝すれば、御朱印を頂ける。
承久3年(1221年)、承久の乱によって隠岐へは、当地の源福寺を行在所とし、旧在庁官人で海士郡の公文、田荘両職を兼帯した村上氏が身辺警護と監視にあたっていた。
19年後の延応元年(1239年)2月22日に崩御、同25日に源福寺裏山で火葬にされ、遺灰を埋納して火葬塚を営んだ。
万治元年(1658年)、松江藩主松平直政が廟殿を造営し、明治まで維持に努めたが、明治2年(1689年)に廃仏毀釈の影響で源福寺は一旦廃寺となった。
海士町の後鳥羽院資料館に所蔵される江戸末期の様子を描いた絵図には、この火葬塚の場所に「後鳥羽院神社」が描かれており、当時島民によりここで祭祀が行われていたとされる。
しかし、明治6年(1873年)、法皇の御霊を大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に奉遷したため、翌7年(1874年)に後鳥羽院神社も取り払われた。なお、神社が取り払われての後も、祭祀が続けられたとされる。
後に、この神社を中心とした旧源福寺境内地は、後鳥羽天皇の隠岐の御陵「御火葬塚」とされた。
当社は、昭和15年(1940年)の紀元二千六百年の奉祝事業の一つとして島根県が創建したもので、同14年に完成し、同18年には県社に列せられた。鎮座地は「御火葬塚」に隣接している。
なお、神社が完成した昭和14年(1939年)は、法皇の崩御700年に執り行われた「後鳥羽天皇七百年祭」の年でもあった。
例祭は、春の例大祭が4月14日、秋の例大祭が10月14日。後鳥羽天皇の下記の御製(和歌)に独自の曲と振りを付した町無形文化財「承久楽」が奉納される。
我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け1万5000坪の境内に社殿が並び、参道には桜並木があり、春には花見客が訪れる。また、門前の後鳥羽院資料館(旧歴史民俗資料館)には法皇にちなむ品々が陳列されている。
銘来国光の太刀をはじめ、多くの刀剣を所蔵している。
【ご利益】
開運招福、縁結び、交通安全、学業・受験合格など(公式HP)

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