奈良朝創祀の総鎮守、謙信・景勝の崇敬、市の古名を冠する諏訪社
[住所]新潟県長岡市表町1-6-1
[電話]0258-32-1032
平潟神社(ひらかたじんじゃ)は、新潟県長岡市にある神社。近代社格では県社。健御名方富命を祀る諏訪神社であり、平潟諏訪神社とも。俗称は智慶様(ちけんさま・ちけん様)。参拝すれば、御朱印を頂ける。
奈良時代の天平8年(736年)、当地一帯で疫病が流行し、北陸を巡っていた行基が自作の普賢菩薩の仏像を奉納して祈念したのが創祀だという。
現在の長岡市の主要部を「平潟」と呼んでおり、当社がいつしか平潟殿と呼ばれるようになり、現社号の由来となった。
かつては長岡停車場付近にあり、上杉謙信及び上杉景勝の尊崇が篤かったとされる。堀氏の築城計画の一環として現在地に移転した。江戸時代の社領は40石とされる。
越後長岡藩に牧野氏が移封した後は長岡藩の祈願所となる。元禄年間(1688年-1704年)に藩命により古志郡高畑村の青木諏訪社が合祀され、信濃国諏訪大社の取次となる。
かつては当山派修験道の智慶院が別当寺だった。智慶院は長岡藩内の配下寺院19院の触頭で、越後長岡藩より厚遇された。現在も続く俗称の由来である。
明治5年4月(1872年)に村社に列し、大正10年(1921年)に郷社、昭和3年(1928年)に県社に昇格する。戦前は武神として崇められ、出征者による祈願が多かったという。
境内には長岡空襲犠牲者慰霊塔がある。長岡市の中心部に鎮座し、今でも市の総鎮守と慕われ、市民の守護神として多くの人たちに崇敬されている。
4月には春祭りがあり、大神輿の渡御と、衣装を着けた天狗・獅子頭・太鼓・錦旗の後にお稚児の行列が旧長岡町を回る。7月には夏祭があり、御輿が各町内を回る。
初詣はもちろん、年末年始の二年参りには大勢の人たちが参道を埋め尽くす。境内には淡島社・龍神社・金刀比羅社・稲荷社・天満天神社などがある。
【ご利益】
開運招福、家内安全、厄災除け、諸願成就

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[電話]0258-32-1032
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奈良時代の天平8年(736年)、当地一帯で疫病が流行し、北陸を巡っていた行基が自作の普賢菩薩の仏像を奉納して祈念したのが創祀だという。
現在の長岡市の主要部を「平潟」と呼んでおり、当社がいつしか平潟殿と呼ばれるようになり、現社号の由来となった。
かつては長岡停車場付近にあり、上杉謙信及び上杉景勝の尊崇が篤かったとされる。堀氏の築城計画の一環として現在地に移転した。江戸時代の社領は40石とされる。
越後長岡藩に牧野氏が移封した後は長岡藩の祈願所となる。元禄年間(1688年-1704年)に藩命により古志郡高畑村の青木諏訪社が合祀され、信濃国諏訪大社の取次となる。
かつては当山派修験道の智慶院が別当寺だった。智慶院は長岡藩内の配下寺院19院の触頭で、越後長岡藩より厚遇された。現在も続く俗称の由来である。
明治5年4月(1872年)に村社に列し、大正10年(1921年)に郷社、昭和3年(1928年)に県社に昇格する。戦前は武神として崇められ、出征者による祈願が多かったという。
境内には長岡空襲犠牲者慰霊塔がある。長岡市の中心部に鎮座し、今でも市の総鎮守と慕われ、市民の守護神として多くの人たちに崇敬されている。
4月には春祭りがあり、大神輿の渡御と、衣装を着けた天狗・獅子頭・太鼓・錦旗の後にお稚児の行列が旧長岡町を回る。7月には夏祭があり、御輿が各町内を回る。
初詣はもちろん、年末年始の二年参りには大勢の人たちが参道を埋め尽くす。境内には淡島社・龍神社・金刀比羅社・稲荷社・天満天神社などがある。
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