オオクニヌシを於褒婀娜武知命として奉斎、タタラゆかりの式内社
[住所]栃木県栃木市藤岡町大前字磯城宮383
[電話]-
大前神社(おおまえじんじゃ)は、栃木県栃木市藤岡町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 下野国 都賀郡「大前神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
主祭神は於褒婀娜武知命。大穴持命・大名持命のことで、つまりは大己貴命。珍しい表記である。神日本磐余彦彦火火出命を配祀。
創祀の時期は不詳。当社境内と近隣に9世紀のものと考えられるタタラ跡が三基確認されており、工員などが多く住んだ地域だという。周辺の地名にもその名残がみられる。
往古は磯城宮とも称された。社伝によれば、天慶2年(993年)、平将門の乱の際、村中ことごとく兵火に焼かれ、当社も焼失したが間もなく再建された。
しかし室町時代になり、再度の火災により社運が衰え 祭祀が廃され数百年が過ぎたという。
天正19年(1591年)、徳川家康が江戸入府の際に再建され 元和8年(1622年)には当地が古河領となり、領主永井直勝は社地五反歩田四反七畝を寄進。
永井氏が佐倉に移封された後も、武の神として近郷近在より崇敬された。明治3年(1870年)に近郷の総鎮守とされ、明治5年(1872年)11月に郷社に列格した。例祭は4月3日。夏祭が7月24日にある。
現在の鎮座地は明治12年(1879年)4月に移転したもので、旧社地跡は北方約400メートル離れた台地だった。旧社地跡の記念碑も土地改良によって、さらに北方約100メートルの畑地に移されている。
『下野国誌』によれば「おおさき」と称しているが、当社近郷では「おおまえ」と呼ばれている。
なお、『延喜式』神名帳には下野国において同名の「大前神社」が芳賀郡にも記載されている。こちらは「おおさきじんじゃ」と読み、現在、真岡市に鎮座する旧県社であって、当社とは異なる。
【ご利益】
家内安全、病気平癒

【関連記事】
・栃木県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、栃木県に鎮座している神社の一覧
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『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 下野国 都賀郡「大前神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
主祭神は於褒婀娜武知命。大穴持命・大名持命のことで、つまりは大己貴命。珍しい表記である。神日本磐余彦彦火火出命を配祀。
創祀の時期は不詳。当社境内と近隣に9世紀のものと考えられるタタラ跡が三基確認されており、工員などが多く住んだ地域だという。周辺の地名にもその名残がみられる。
往古は磯城宮とも称された。社伝によれば、天慶2年(993年)、平将門の乱の際、村中ことごとく兵火に焼かれ、当社も焼失したが間もなく再建された。
しかし室町時代になり、再度の火災により社運が衰え 祭祀が廃され数百年が過ぎたという。
天正19年(1591年)、徳川家康が江戸入府の際に再建され 元和8年(1622年)には当地が古河領となり、領主永井直勝は社地五反歩田四反七畝を寄進。
永井氏が佐倉に移封された後も、武の神として近郷近在より崇敬された。明治3年(1870年)に近郷の総鎮守とされ、明治5年(1872年)11月に郷社に列格した。例祭は4月3日。夏祭が7月24日にある。
現在の鎮座地は明治12年(1879年)4月に移転したもので、旧社地跡は北方約400メートル離れた台地だった。旧社地跡の記念碑も土地改良によって、さらに北方約100メートルの畑地に移されている。
『下野国誌』によれば「おおさき」と称しているが、当社近郷では「おおまえ」と呼ばれている。
なお、『延喜式』神名帳には下野国において同名の「大前神社」が芳賀郡にも記載されている。こちらは「おおさきじんじゃ」と読み、現在、真岡市に鎮座する旧県社であって、当社とは異なる。
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