中世に本願坊真賢が再興、歴代紀州藩主の崇敬を受け続けた古社、重文社殿
[住所]和歌山県海草郡紀美野町小畑625
[電話]073-489-2162
野上八幡宮(のかみはちまんぐう)は、和歌山県海草郡紀美野町にある神社。近代社格では県社。御祭神は品田和気命・息長帯姫命・玉依姫命。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『八幡宮歴代記』によると、神功皇后が三韓から帰還の途中、紀伊国衣奈浦に着き、難波に船を進ませた時、皇子(第15代応神天皇)を武内大臣に託し、鹿紺坂皇子・忍熊皇子の難を避けて、この聖仙山麓を選び、暫時の頓宮とした、その跡とされる。
第29代欽明天皇13年(552年)、大和国より野上へ八幡神を勧請し、先住の神である国狭槌尊を聖仙山(標高232メートル)へ遷宮した。
永延元年(987年)に石清水八幡宮の別宮となり、万寿2年(1025年)に社殿が造営された。天文10年(1541年)の根来衆徒の来襲によって社殿、財宝、文書などが焼失。
弘治3年(1557年)、近江国出身の本願坊真賢が社殿・堂舎の再建を決意し、野上荘をはじめ各地に勧進を行い、元亀元年(1570年)に本殿・宝蔵・若宮殿・護摩堂が再建された。
さらに天正元年(1573年)には別当寺として東に本願寺、西に神宮寺が建立された。当時の様子は『紀伊国名所図会』に記されている。
天正13年(1585年)の紀州征伐を終えた豊臣秀吉に社領を没収されたが、慶長6年(1601年)に浅野長政が社領として3石を寄進し、鳥居や神輿を奉納、放生会などの神事を復興するよう命じた。
元和5年(1619年)に紀州藩主となった徳川頼宣は社領を安堵して諸種の神具を寄進。頼宣は4度社参しており、内外鳥居の再建、絵馬額の奉納、石灯籠の寄進などを行った。
第6代藩主徳川宗直は延享2年(1745年)に、第7代藩主徳川宗将は宝暦8年(1758年)にそれぞれ絵馬額を奉納している。
享和2年(1802年)、本願寺第9世快山(柴目村出身)の発願で多宝塔の再建に着手し、文化2年(1805年)に完成。
明治2年(1869年)の神仏分離令により境内から本願寺、神宮寺、不動堂、本地堂が撤去された。明治4年(1871年)の太政官令で定められた氏子区域は野上荘全域。
明治6年(1873年)に村社、明治17年(1884年)に郷社、大正5年(1916年)に県社となった。明治41年(1908年)から和歌山県は神社整理に着手し、無格社173社を合祀。大正15年(1926年)に多宝塔が売却された。
昭和32年(1957年)から3年間を掛けて、国の重要文化財に指定されている本殿・拝殿・武内社殿・平野今木社殿・高良社殿などを解体修理した。
平成5年(1993年)から翌年にかけて、檜皮屋根葺替、塗装の重要文化財保存修理工事を行った。
他に、国の重要文化財として赤銅烏頸太刀 銘真長がある。は舞台であったが江戸時代中期に雅楽が絶えたため床を取り除いて改装された絵馬殿が、県指定文化財。
例祭は10月15日に近い日曜日。1月10日は末社・恵美須社の例祭で十日戎、7月第3日曜日より一週間に末社・須佐神社の例祭である祇園祭があり、その翌日に夏祭りがある。
【ご利益】
厄災除け、安産・子育て、諸願成就

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[電話]073-489-2162
野上八幡宮(のかみはちまんぐう)は、和歌山県海草郡紀美野町にある神社。近代社格では県社。御祭神は品田和気命・息長帯姫命・玉依姫命。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『八幡宮歴代記』によると、神功皇后が三韓から帰還の途中、紀伊国衣奈浦に着き、難波に船を進ませた時、皇子(第15代応神天皇)を武内大臣に託し、鹿紺坂皇子・忍熊皇子の難を避けて、この聖仙山麓を選び、暫時の頓宮とした、その跡とされる。
第29代欽明天皇13年(552年)、大和国より野上へ八幡神を勧請し、先住の神である国狭槌尊を聖仙山(標高232メートル)へ遷宮した。
永延元年(987年)に石清水八幡宮の別宮となり、万寿2年(1025年)に社殿が造営された。天文10年(1541年)の根来衆徒の来襲によって社殿、財宝、文書などが焼失。
弘治3年(1557年)、近江国出身の本願坊真賢が社殿・堂舎の再建を決意し、野上荘をはじめ各地に勧進を行い、元亀元年(1570年)に本殿・宝蔵・若宮殿・護摩堂が再建された。
さらに天正元年(1573年)には別当寺として東に本願寺、西に神宮寺が建立された。当時の様子は『紀伊国名所図会』に記されている。
天正13年(1585年)の紀州征伐を終えた豊臣秀吉に社領を没収されたが、慶長6年(1601年)に浅野長政が社領として3石を寄進し、鳥居や神輿を奉納、放生会などの神事を復興するよう命じた。
元和5年(1619年)に紀州藩主となった徳川頼宣は社領を安堵して諸種の神具を寄進。頼宣は4度社参しており、内外鳥居の再建、絵馬額の奉納、石灯籠の寄進などを行った。
第6代藩主徳川宗直は延享2年(1745年)に、第7代藩主徳川宗将は宝暦8年(1758年)にそれぞれ絵馬額を奉納している。
享和2年(1802年)、本願寺第9世快山(柴目村出身)の発願で多宝塔の再建に着手し、文化2年(1805年)に完成。
明治2年(1869年)の神仏分離令により境内から本願寺、神宮寺、不動堂、本地堂が撤去された。明治4年(1871年)の太政官令で定められた氏子区域は野上荘全域。
明治6年(1873年)に村社、明治17年(1884年)に郷社、大正5年(1916年)に県社となった。明治41年(1908年)から和歌山県は神社整理に着手し、無格社173社を合祀。大正15年(1926年)に多宝塔が売却された。
昭和32年(1957年)から3年間を掛けて、国の重要文化財に指定されている本殿・拝殿・武内社殿・平野今木社殿・高良社殿などを解体修理した。
平成5年(1993年)から翌年にかけて、檜皮屋根葺替、塗装の重要文化財保存修理工事を行った。
他に、国の重要文化財として赤銅烏頸太刀 銘真長がある。は舞台であったが江戸時代中期に雅楽が絶えたため床を取り除いて改装された絵馬殿が、県指定文化財。
例祭は10月15日に近い日曜日。1月10日は末社・恵美須社の例祭で十日戎、7月第3日曜日より一週間に末社・須佐神社の例祭である祇園祭があり、その翌日に夏祭りがある。
【ご利益】
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