神武東遷の際に創祀、江戸期に八幡宮を合祀、木ノ本の獅子舞が有名な古社
[住所]和歌山県和歌山市木ノ本1234
[電話]073-451-5915

木本八幡宮(きもとはちまんぐう)は、和歌山県和歌山市木ノ本にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『紀伊続風土記』所引『(紀伊)国造家旧記』に、初代神武天皇の東遷に際して、別働隊として神鏡と日矛という2種の神宝を奉じた天道根命が、両神宝の鎮座地を求めて紀伊国加太浦に来着。

次いで当地へ遷り、その後更に毛見浦へ遷ったことを伝える。2種の神宝は日前神宮・國懸神宮(日前国懸神宮)の御神体とされた。ちなみに、上陸した加太浦二は現在、加太春日神社がある。

社伝によれば、この時に天道根命が日前国懸両大神を厳橿山の橿の木の根本に奉安して祀ったのが起源である。

そのため当社を「木本の宮」、地名を「木(ノ)本」と名付けたという。現在の主祭神の一柱、日孁大神は当初からの御祭神となる。

その後、神功皇后が三韓征伐を終えて凱旋の途次、麛坂皇子忍熊皇子の乱のために誉田皇子(後の第15代応神天皇)が武内宿祢とともに当地に上陸して頓宮を営み、暫時滞在して難を逃れた。

第29代欽明天皇の勅命でその頓宮跡に、「しばらく」滞在した故事に因んで芝原八幡宮(しばはらはちまんぐう)が創建された。その御祭神が応神天皇・神功皇后。

中世以降、両宮とも在地の土豪等から多くの田畠が寄進されるなど、木本庄の鎮守神としての崇敬を集めたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州攻略の兵火に罹って社殿などを焼失。

江戸時代に入って、慶長8年(1603年)に両宮の仮神殿を再建し、元和4年(1618年)に芝原八幡宮を木本宮へ合祀する形で現社号として再興し、以後地域の産土神として崇められている。

現存の本殿はこの時のもので、全体的に桃山時代の様式を踏襲し、彫刻や木鼻の形もよく整い、建立当初の建築部材もよく残されている。県の有形文化財に指定されている。

文久元年(1861年)に孝明天皇による攘夷の祈願がなされるとともに正一位の神階が授けられ、明治6年(1873年)4月に村社に列し、明治8年(1875年)10月に県社へ昇格した。

例祭は古く8月15日に行われ、太陽暦に改暦後は10月15日とされたが、現在は10月14日以後の最初の日曜日に斎行される。

前日の宵宮では山腹の本殿から山麓の権殿へ神霊を遷座させる下遷宮が行われる。この例祭では、「梯子獅子(はしごしし)」と称される有名な木ノ本の獅子舞が奉納される。

この獅子舞は、社伝によれば神亀元年(724年)、聖武天皇の玉津島行幸に際して芝原八幡宮で放生会を行ったことに起源を持ち、古くは「放生祭」と称したという。現在は、県指定無形民俗文化財。

さらに上遷宮と称して氏子の西庄、古屋、木ノ本の3地区から3基の神輿が出され、豊作と豊漁を祈って海岸までの渡御と禊ぎが行われる。

御田祭(おんださい)が1月7日午後に拝殿で行われる、農具の模型を使って農耕の様子を模倣し、当年の稲の豊作を祈る予祝儀礼。ほとんどの所作を宮司1人で演じる点に特徴がある。

山本氏が宮司職を世襲している。社蔵の建徳2年(1371年)の文書に「山本の神主」と見え、それ以来連綿と続く旧家。

境内に若宮神社(仁徳天皇)、高良神社(高良玉垂命)、三嶽神社(金山毘古命八衢比古命・八衢比売命)、天神社(菅原道真公)など10末社、飛地境内として姫神社(和歌山市榎原)、蛭子若宮神社(同古屋)の2末社がある。

【ご利益】
厄災除け、健康長寿、開運招福
木本八幡宮 - 神武東遷の際に創祀、江戸期に八幡宮を合祀、木ノ本の獅子舞が有名な古社
【関連記事】
和歌山県の旧県社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
和歌山県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、和歌山県に鎮座している神社の一覧
木本八幡宮の御朱印