古くは鹿島明神と呼ばれた、豊城入彦命を祀る式内論社の古社
[住所]茨城県稲敷郡阿見町中郷2-25
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阿彌神社(あみじんじゃ)は、茨城県稲敷郡阿見町中郷にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 信太郡「阿弥神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

古名は鹿島明神。阿見町竹来にも旧県社の同名神社があり、式内社「阿弥神社」の論社となっている。

第10代崇神天皇18年、豊城入彦命が崇神天皇の勅命による東国平定で当地に訪れた際、下記の『常陸国風土記』に記された普都大神の事蹟を偲んだ。
皇祖の天下を経営せらるるや阿彌普都、実に能く天業を補弼せり、其神功成るに及びて天に還りしと、蓋し是地に於てするや
この言葉が信太郡阿彌郷、ひいては阿見町の由来になったという。この伝承を縁故として、和銅元年(708年)に祠を建てて皇子を祀り、創建した。

別伝として、『式内社調査報告』には、元は海神を祀るもので、天平勝宝2年(750年)の神託により豊城入彦命を合祀したという伝承がある。

持統天皇5年(691年)の夏、霞ヶ浦沖に光が出るので漁師が網を下ろすと、風雨とともに異人が現れた。

異人は「海の神小童の神」と名乗り、霞ヶ浦の大毒魚の悪光が不漁と国家の愁をもたらすと言い残し、波底に沈んだ。

すると雲が晴れて波が静まった。漁師は「海の神小童の神」を祀る「海神社」を村内の浄地に建立したが、後に社名が転訛して「網神社」になった。

ただし、この二つの伝承にも関わらず、近世の御祭神は武甕槌命だった。明暦3年(1657年)の棟札写では本地十一面観音(武甕槌命の本地)、享保・明和年間(1716年-1771年)の資料では鹿島明神。

武甕槌命の本宮ともされる、常陸国一宮鹿島神宮の影響もあったか。なお、文献上、現社号を称し始めたのは天明元年(1781年)以降という。

阿見町の当社を含む二つの阿彌神社の他、村内の熊野権現と合わせて、三社で激しく式内社を争い、文政12年(1829年)に寺社奉行の勅許を仰ぐに至った。

明治以後も論争は諸説紛々で、社格的に上である竹来が有力視されているが、当社を推す意見も多い。

主祭神は豊城入彦命。明治40年(1907年)から翌年にかけて、熊野神社、香取神社、天照大神、皇産霊神社などを合祀、それらの御祭神を配祀する。

つまり、応神天皇天鈿女命熊野神魯岐櫛御気命倉稲魂命・速玉之男命・経津主神高皇産霊神菊理媛命迦具土命伊邪那美命・事解男命・天照大御神・武甕槌命。

境内掲示板には御祭神は豊城入彦命・経津主神とある。簡素化した記述なのだろうが、2柱が中心である、との意味かもしれない。例祭は10月1日。11月下旬に酉の市が開かれる。

境内社に、青麻神社、道祖神社、八幡神社二座、稲荷神社、日枝神社、諏訪神社がある。また、境内には旧霞ヶ浦神社の社殿がある。

【ご利益】
五穀豊穣、家内円満、交通安全
阿彌神社(阿見町中郷) - 古くは鹿島明神と呼ばれた、豊城入彦命を祀る式内論社の古社
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