七座山を奉斎、阿部比羅夫が蝦夷征伐で来訪した時に降伏を受け入れて創建
[住所]秋田県能代市二ツ井町小繋天神道上67
[電話]0185-73-5308
七座神社(ななくらじんじゃ)は、秋田県能代市二ツ井町にある神社。近代社格では県社。「ななざじんじゃ」ではない。別名は天神七座神社、七座山天神宮。当地方の受験の神様として有名である。御朱印の有無は不明。
当社と米代川をはさんだ対岸には七つのピークがある七座山(ななくらやま)があり、当社の一つの鳥居は七座山に向かって建つ。当社からは、能代市の一部や、七座山を望むことができる。
御祭神は国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・菅原道真尊。
斉明天皇4年(658年)、阿部比羅夫が創建したと伝わる。比羅夫が水軍を率い、蝦夷征伐のためこの地まで赴いた。この軍に対し、齶田・渟代・肉入籠の蝦夷は
「私たちは弓矢を持っていても決して敵対するものではない。“齶田の浦神”に誓って申し上げる」
と許しを乞うたという。この“齶田の浦神”が当社を指すという。比羅夫は彼等の降伏を認め、馳走して労い、当社には船一艘と五色の綵帛を奉納したという。
少なくとも鎌倉時代から、当社と同じ阿部比羅夫による創建とされる綴子神社が、当社や七座山の遥拝所として機能するようになったという。
天正19年(1591年)頃、豊臣秀吉によって秋田に追放された織田信雄は、当社や熊野神社に都へ戻れるよう願をかけ、翌年帰参がゆるされたとされる。
江戸時代になり、藩主佐竹氏も、代々当社を信奉し、巡国のたびに詣で、掛軸や刀剣類を奉納し、社殿の造営にも多額の募財を献じたという。
天明8年(1788年)、古川古松軒は当社を訪れ、神社の縁起を聞き、『東遊雑記』にその内容を記録している。「斉明天皇が開基で、それ以外に由緒は知らない」というもので、感銘を受けたとしている。
「昔は素朴に古墳や山や海を祀っていたが、今では仏教を真似て、社などを美々しく建設している。さらに縁起物などを並べまくっているというのに」という、当時の一般的な状況との比較が面白い。
明治15年(1882年)、県社に列せられる。例祭は5月8日。
【ご利益】
学業・受験合格、平安安寧、家内安全、諸願成就、夫婦和合
【関連記事】
・秋田県の旧県社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
・秋田県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、秋田県に鎮座している神社の一覧
[電話]0185-73-5308
七座神社(ななくらじんじゃ)は、秋田県能代市二ツ井町にある神社。近代社格では県社。「ななざじんじゃ」ではない。別名は天神七座神社、七座山天神宮。当地方の受験の神様として有名である。御朱印の有無は不明。
当社と米代川をはさんだ対岸には七つのピークがある七座山(ななくらやま)があり、当社の一つの鳥居は七座山に向かって建つ。当社からは、能代市の一部や、七座山を望むことができる。
御祭神は国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・菅原道真尊。
斉明天皇4年(658年)、阿部比羅夫が創建したと伝わる。比羅夫が水軍を率い、蝦夷征伐のためこの地まで赴いた。この軍に対し、齶田・渟代・肉入籠の蝦夷は
「私たちは弓矢を持っていても決して敵対するものではない。“齶田の浦神”に誓って申し上げる」
と許しを乞うたという。この“齶田の浦神”が当社を指すという。比羅夫は彼等の降伏を認め、馳走して労い、当社には船一艘と五色の綵帛を奉納したという。
少なくとも鎌倉時代から、当社と同じ阿部比羅夫による創建とされる綴子神社が、当社や七座山の遥拝所として機能するようになったという。
天正19年(1591年)頃、豊臣秀吉によって秋田に追放された織田信雄は、当社や熊野神社に都へ戻れるよう願をかけ、翌年帰参がゆるされたとされる。
江戸時代になり、藩主佐竹氏も、代々当社を信奉し、巡国のたびに詣で、掛軸や刀剣類を奉納し、社殿の造営にも多額の募財を献じたという。
天明8年(1788年)、古川古松軒は当社を訪れ、神社の縁起を聞き、『東遊雑記』にその内容を記録している。「斉明天皇が開基で、それ以外に由緒は知らない」というもので、感銘を受けたとしている。
「昔は素朴に古墳や山や海を祀っていたが、今では仏教を真似て、社などを美々しく建設している。さらに縁起物などを並べまくっているというのに」という、当時の一般的な状況との比較が面白い。
明治15年(1882年)、県社に列せられる。例祭は5月8日。
【ご利益】
学業・受験合格、平安安寧、家内安全、諸願成就、夫婦和合
【関連記事】
・秋田県の旧県社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
・秋田県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、秋田県に鎮座している神社の一覧
コメント