徳川光圀が明治を先取りした政策
水戸藩「八幡潰し」をくぐり抜けた茨城県の八幡神社四社 - 光圀が明治を先取りした政策
常陸水戸藩の第2代藩主徳川光圀は寛文年間(1661年-1673年)、寺院整理と一村一鎮守制の確立を目指した。明治初年の神仏分離令、廃仏毀釈を先取りしたような政策だったが、新興のいかがわしい宗教施設、「淫祠」の取り潰しが主眼だった。

第3代藩主徳川綱條もこの政策を継承し、発展させた。元禄年間(1688年-1703年)には神社からの仏教的性格の払拭、特に八幡社の取り潰しを主な政策とした。

徳川光圀隠居後の元禄年間の政策は、「神社改め」「鎮守改め」「八幡改め」などとも。非難的に言及する場合は「八幡潰し」とも呼ばれる。

この改革により、105社の八幡社のうち101社が取り潰しとなった。その内訳は、廃社6社、神名変更86社、合祀または摂末社としての遷座9社。

取り潰しを免れた4社が、水戸藩「八幡潰し」をくぐり抜けた茨城県の八幡神社四社である。

水戸藩「八幡潰し」は現在、明治の神仏分離令よりも厳しすぎた措置として非難的に取られることが多い。

また、光圀が行ったとの論調も多いが、実際には綱條による実施。ただ、光圀が明治を先取って、廃仏毀釈を始めたその延長線上にあったとは言えるかもしれない。

なぜ八幡だけが目の敵にされたのか。当時の八幡の実態が仏教との習合はもとより、何らかの新興のいかがわしい宗教と多く関連していたため、なのかもしれない。であるならば、それぐらい、八幡が当時においてもポピュラーだった、との証左ではある。

逆に言えば、由緒正しく、正当な八幡であると、当時の水戸藩が認定したのが、結果的にわずか4社になってしまい、それが現存していると考えた方が良いだろう。

馬場八幡宮

馬場八幡宮 - 平安時代中期に源頼義が創祀、江戸時代以前の本殿が現存する佐竹氏崇敬社
[解説]源頼義が創祀、江戸期以前の本殿が現存
[住所]常陸太田市馬場町574
[電話]0294-73-2100

水戸八幡宮

水戸八幡宮 - 江戸時代以前の本殿が現存、天然記念物「オハツキイチョウ」や火伏せの神
[解説]天然記念物「オハツキイチョウ」
[住所]水戸市八幡町8-54
[電話]029-226-8854

若宮八幡宮(常陸太田市)

若宮八幡宮(常陸太田市) - 佐竹・水戸徳川家が崇敬した太田郷鎮守、巫女舞や大ケヤキ
[解説]太田郷鎮守、巫女舞や大ケヤキ
[住所]常陸太田市宮本町2344
[電話]0294-72-0868

安良川八幡宮

安良川八幡宮 - 平安中期創建、茨城日立以北唯一の旧県社、延命図られる樹齢1000年の爺杉
[解説]平安中期創建、樹齢1000年の爺杉
[住所]高萩市安良川1173
[電話]0293-22-3611

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