基肄城跡、五十猛命の伝承が多い「植林発祥之地」、9月に御神幸祭
[住所]佐賀県三養基郡基山町宮浦字宮脇2050
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荒穂神社(あらほじんじゃ)は、佐賀県三養基郡基山町宮浦にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 肥前国 基肄郡「荒穂神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

御祭神は、主祭神が瓊々杵尊。鴨大神、八幡大神、宝満大神、春日大明神、住吉大明神、五十猛命を配祀する。御祭神には諸説あり、荒穂大明神とも。

社殿は最初、基山山頂にあったが、戦国の兵火にかかって転々とし、当地に造営されたのは貞享2年(1685年)。

基山頂上南西の崖のそばに「たまたま石」という花崗岩塊があり、その岩の前の平坦地がかつての社地と伝わる。 基山は木の国に通じ、五十猛命と繋がる。

木の山(基山)の東に、山道を通る人たちの半数を殺す悪神たちが住んでいたが、五十猛命に退治されたという伝説がある。また、「日本植林発祥之地」と伝わる。

五十猛命が美女を見初めて結婚し、夫婦の契りを結んだことから、基山は契り山とも。また、主祭神の瓊々杵尊が筑紫日向の高千穂より遷向し、基山で国見をしたとも伝わる。

孝徳天皇の時代(在位:645年-654年)、基肄国造物部金連の後裔金村臣によって創祀されたと伝わる。

天智天皇が白村江の戦い(663年)の後、基山に基肄城を築き荒穂神を守護神としたという。この時に奉納されたのが御神幸祭で今でも舞われる獅子舞。

『日本三代実録』に貞観2年(860年)に従五位上から正五位下に陞叙された記録がある。明治6年(1873年)に郷社、昭和3年(1928年)に県社に列格した。

流造の現社殿の拝殿は文政2年(1819年)、神殿・中殿は安政5年(1858年)の改建になる。

例祭は9月23日で、御神幸祭(みゆきまつり)。下宮地「御仮殿」で、災払い、風流、獅子舞、はぐま、はさみ箱、笛、踊りなどの民俗芸能が演じられる。

5月1日から7日間には斎祭がある。斎祭の起源と関連するといわれる三つの伝説石がある。

右が子宝石で、この石に腰を掛け祈願すると子が授かるといわれる。中が荒穂の神と高良の神の投合された石。荒穂の神の投げた石は高良の神の神殿(現 高良大社か)の下にあるという。

左が荒穂の神の馬が基山の頂上より飛降りた石と伝えられ、馬の蹄の跡が付いている。

【ご利益】
平穏安寧、産業振興、身体壮健
荒穂神社(基山町) - 基肄城跡、五十猛命の伝承が多い「植林発祥之地」、9月に御神幸祭
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