屋久島に鎮座する式内最南端、益救神太鼓と益々救って下さる神様「救の宮」
[住所]鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦277
[電話]0997-42-0907

益救神社(やくじんじゃ)は、鹿児島県熊毛郡屋久島町、屋久島にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 大隅国 馭謨郡「益救神社」に比定される式内社(小社)。式内社の最南端である。近代社格では県社

かつては「ますくひ」「すくひ」とも。主祭神は天津日高彦火々出見命大山祇命木花開耶姫命塩土翁豊玉彦命豊玉姫命玉依姫命を配祀する。

もともとは屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものか。かつては島内各地に三岳の遥拝所があった。当社付近にも牛床詣所がある。宮之浦岳の山頂には当社の奥社がある。

益々救って下さる神様「救の宮」、また掖玖島(屋久島)が龍宮であるとして「一品宝珠大権現」として広く尊崇された。

明治維新までは、旧村18ヶ所に村落名を冠した別々の益救神社があった。現在は当社以外に原益救神社があるのみ。

『日本書紀』第34代舒明天皇元年(629年)4月1日の条に、田部連(たべのむらじ)を掖玖に遣わしたとある。

8世紀から9世紀初頭にかけて屋久島と種子島が多禰国であった時代は、当社がその一宮であったと伝えられる。『延喜式』神名帳が文献上の初見。

戦国時代、屋久島は種子島氏の所領となり、法華宗が重視されたために当社は衰微し、所在も不明となった。

江戸時代に入り、屋久島は薩摩藩領となって、貞享元年(1684年)に宰領として薩摩藩士・町田孫七忠以が赴任した。

そこで、当社の荒廃を聞き、これを嘆き、翌年には社殿を再興する。幕末の文久3年(1863年)にも薩摩藩直営で社殿を造営し、神料50石が献じられた。

第二次世界大戦中の昭和20年(1945年)7月15日、米軍の爆撃により社殿が焼失。再建の費用捻出のため境内地の一部と境内の杉約2000本を買却し、昭和29年(1954年)に現在の社殿を建立した。

屋久島では、春秋の彼岸になると、村落ごとに若者を中心とした一団が御岳に登山し、シャクナゲの枝を土産として里に持って帰る岳参りの風習があった。

現在では、自然保護の観点からシャクナゲの枝を持ち帰ることはない。

例祭は4月10日、神幸祭。大晦日から年越しにかけて、益救神太鼓と呼ばれる厄払いの太鼓行事がある。年越祭として知られる。

【ご利益】
救いの神、家内安全、子孫繁栄、海上安全、水難除け
益救神社 - 屋久島に鎮座する式内最南端、益救神太鼓と益々救って下さる神様「救の宮」
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益救神社の御朱印