名神大社・甲斐国一宮ではないかもしれないが、崇敬され続けてきた古社
[住所]山梨県西八代郡市川三郷町高田梅ヶ入3696
[電話]0556-42-3884 - 若宮八幡神社
一宮浅間神社(いちのみやせんげんじんじゃ)は、山梨県西八代郡市川三郷町高田にある神社。
現在は南巨摩郡身延町にある若宮八幡神社の兼務神社であり、御朱印も事前に連絡した上で、若宮八幡神社で受けることになる。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 甲斐国 八代郡「浅間神社」に比定される式内社(名神大社)の参考社。ただし、『延喜式』臨時祭「名神祭」には掲載されていない。
甲斐国一宮とされる場合もある。近代社格では村社。古くは単に「一宮」や、「一ノ宮明神」「市川一の宮」などと称された。
主祭神は木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。相殿に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を祀る。
社伝によれば第12代景行天皇の時代の創祀である。
『日本三代実録』に貞観6年(864年)の富士山の大噴火を受けてその神意を慰めるため、翌貞観7年(865年)に勅命によって甲斐国八代郡に創建され、官社に列し、祝と祢宜が置かれたという。
もっとも、式内名神大社「浅間神社」は笛吹市の浅間神社が有力視され、他に、富士河口湖町の河口浅間神社や甲府市青沼の青沼浅間神社が論社として存在する。
甲斐国一宮は通説として笛吹市の浅間神社に当てられ、当社の「一宮」は旧市川郷のものとも考えられる。
なお、当社から約500メートルほどの地に「二の宮」と称される弓削神社が鎮座するが、甲斐国二宮は笛吹市の美和神社とされているので、これも同様に市川郷の一宮であった当社に対しての「二の宮」の称であるとも。
『甲斐国社記・寺記』によれば、朝野の崇敬篤く、延長2年(924年)10月、永万3年(1167年-1168年)11月、文治2年(1186年)4月、1382年(永徳2年10月)に社殿造営があった。
また、神領地30町(約3600坪)を有し、社家12人が所属していたという。
武田氏が甲斐国内の神社の神官を対象に府中八幡宮(現 八幡神社)へ2日2晩の勤番を命じた。
その永禄4年(1561年)の「府中八幡社勤番帳(武田氏番帳)」の45番に「一の宮の祢き(祢宜)」と見える「一の宮」が当社とされる。
『社記』によれば、天正10年(1582年)に徳川家康が甲斐に入国、当社に布陣したと伝え、その際の兵乱で社領が没収されて一時荒廃したが、その後再興され、家康からも狩衣や太刀が寄進されたという。
慶安2年(1649年)、将軍徳川家光から改めて1石6斗余の朱印領が安堵され、社領内の竹木山林や神主屋敷などは諸役免除の除地とされ、それらは江戸時代を通して維持された。
また、寛永20年(1643年)に後陽成天皇の第8皇子で甲斐国に配流された良純法親王も当社を崇敬し、額などを奉納したという。現在の本殿は元禄16年(1703年)の造替。
例祭は11月3日。以前は御正体山からの神輿渡御があったという。
また、武田氏時代には4月辰日に田祭が行われ、その後、若宮八幡宮(現 南アルプス市十日市場の若宮八幡社)への神輿渡御があり、騎馬武者による騎馬揃えもあった。
神獣鏡1面が国の重要文化財に指定されている。明治27年(1894年)に市川三郷町大塚の鳥居原狐塚古墳から出土し、当社に奉納された四神四獣銅鏡。
「赤烏元年」という中国三国時代の呉の元号で、238年に相当し、紀年銘鏡中の最古のもの。当時の日本と呉の交渉に関する重要な資料でもある。
上記神獣鏡と伴に発掘された仿製の青銅鏡が県指定文化財。弘治3年(1557年)の墨書銘がある随神像2躯や、江戸時代の年代記で甲斐国御手伝普請の記述がある『一宮浅間宮帳』がある。
摂末社には、安政元年(1854年)に当地を襲った大地震の際に、被災者の救済に尽力した代官の荒井顕道と名主依田安清を生きながら祀った生祠に起源を持つものや、ほか5社がある。
県内の13の生祠のうち、三つが当社境内に集中している。アカマツ林の社叢が県指定の自然記念物。
【ご利益】
安産・夫婦和合・家内安全、安寧平安
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[電話]0556-42-3884 - 若宮八幡神社
一宮浅間神社(いちのみやせんげんじんじゃ)は、山梨県西八代郡市川三郷町高田にある神社。
現在は南巨摩郡身延町にある若宮八幡神社の兼務神社であり、御朱印も事前に連絡した上で、若宮八幡神社で受けることになる。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 甲斐国 八代郡「浅間神社」に比定される式内社(名神大社)の参考社。ただし、『延喜式』臨時祭「名神祭」には掲載されていない。
甲斐国一宮とされる場合もある。近代社格では村社。古くは単に「一宮」や、「一ノ宮明神」「市川一の宮」などと称された。
主祭神は木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。相殿に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を祀る。
社伝によれば第12代景行天皇の時代の創祀である。
『日本三代実録』に貞観6年(864年)の富士山の大噴火を受けてその神意を慰めるため、翌貞観7年(865年)に勅命によって甲斐国八代郡に創建され、官社に列し、祝と祢宜が置かれたという。
もっとも、式内名神大社「浅間神社」は笛吹市の浅間神社が有力視され、他に、富士河口湖町の河口浅間神社や甲府市青沼の青沼浅間神社が論社として存在する。
甲斐国一宮は通説として笛吹市の浅間神社に当てられ、当社の「一宮」は旧市川郷のものとも考えられる。
なお、当社から約500メートルほどの地に「二の宮」と称される弓削神社が鎮座するが、甲斐国二宮は笛吹市の美和神社とされているので、これも同様に市川郷の一宮であった当社に対しての「二の宮」の称であるとも。
『甲斐国社記・寺記』によれば、朝野の崇敬篤く、延長2年(924年)10月、永万3年(1167年-1168年)11月、文治2年(1186年)4月、1382年(永徳2年10月)に社殿造営があった。
また、神領地30町(約3600坪)を有し、社家12人が所属していたという。
武田氏が甲斐国内の神社の神官を対象に府中八幡宮(現 八幡神社)へ2日2晩の勤番を命じた。
その永禄4年(1561年)の「府中八幡社勤番帳(武田氏番帳)」の45番に「一の宮の祢き(祢宜)」と見える「一の宮」が当社とされる。
『社記』によれば、天正10年(1582年)に徳川家康が甲斐に入国、当社に布陣したと伝え、その際の兵乱で社領が没収されて一時荒廃したが、その後再興され、家康からも狩衣や太刀が寄進されたという。
慶安2年(1649年)、将軍徳川家光から改めて1石6斗余の朱印領が安堵され、社領内の竹木山林や神主屋敷などは諸役免除の除地とされ、それらは江戸時代を通して維持された。
また、寛永20年(1643年)に後陽成天皇の第8皇子で甲斐国に配流された良純法親王も当社を崇敬し、額などを奉納したという。現在の本殿は元禄16年(1703年)の造替。
例祭は11月3日。以前は御正体山からの神輿渡御があったという。
また、武田氏時代には4月辰日に田祭が行われ、その後、若宮八幡宮(現 南アルプス市十日市場の若宮八幡社)への神輿渡御があり、騎馬武者による騎馬揃えもあった。
神獣鏡1面が国の重要文化財に指定されている。明治27年(1894年)に市川三郷町大塚の鳥居原狐塚古墳から出土し、当社に奉納された四神四獣銅鏡。
「赤烏元年」という中国三国時代の呉の元号で、238年に相当し、紀年銘鏡中の最古のもの。当時の日本と呉の交渉に関する重要な資料でもある。
上記神獣鏡と伴に発掘された仿製の青銅鏡が県指定文化財。弘治3年(1557年)の墨書銘がある随神像2躯や、江戸時代の年代記で甲斐国御手伝普請の記述がある『一宮浅間宮帳』がある。
摂末社には、安政元年(1854年)に当地を襲った大地震の際に、被災者の救済に尽力した代官の荒井顕道と名主依田安清を生きながら祀った生祠に起源を持つものや、ほか5社がある。
県内の13の生祠のうち、三つが当社境内に集中している。アカマツ林の社叢が県指定の自然記念物。
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