スサノヲの子ら当地開拓の神を祀る風土記・式内社、出雲国造崇敬の社を合祀
[住所]島根県出雲市斐川町併川322
[電話]0853-72-2032
立虫神社(たちむしじんじゃ)は、島根県出雲市斐川町にある神社。『延喜式神名帳』にある「立虫神社(出雲国・出雲郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。境内社に万九千神社がある。御朱印の有無は不明。
『出雲国風土記』の「立虫社」である。御祭神は須佐之男命の子である五十猛神・大屋津姫命・抓津姫命の兄妹。合祀した客神社の御祭神である大穴牟遅命・伊弉冊大神を配祀する。
御祭神とその父・須佐之男命は、仁多郡鳥上の峰に天降り、木種を四方に播き植えた後、当地に下り来て鎮座したと伝わる。当地開拓の神。
当社はもともと、古くは出雲郡河内郷(現 仏経山西方の斐伊川中州あたりか)に鎮座していたが、たびたび遷座し、江戸時代の寛文年間(1661年-1673年)以前には現在地より南西約700メートルほどの斐伊川の中州(現 神立橋の大津町付近)に鎮座していた。
しかし、大洪水に伴う斐伊川の流路変更の影響により、寛文10年(1670年)、近隣の万九千社境内に社殿を造営した。
以降、神立大明神(かんだちだいみょうじん)と呼ばれたが、これはもともとは万九千社による命名と思われ、一説には遷座とともに万九千社に合祀されたとも。
明治維新以降は古称に復し、現社号に改めて村社に列した。万九千社は無格社となり、当社境内社となった。大正9年(1920年)、あるいは大正15年(1926年)には、旧千家村に鎮座していた客神社を合祀した。
千家村は出雲大社領であり、客神社(きゃくじんじゃ)は千家国造崇敬の社だった。毎年11月、神魂神社において執行される火継儀祭の際、宿泊所が設けられ、客神社に供物を捧げて祭事が執行されたと伝わる。
【ご利益】
耕地開拓、治水繁栄・土木、五穀豊穣・家内安全など(公式HP)

【関連記事】
・島根県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、島根県に鎮座している神社の一覧
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立虫神社(たちむしじんじゃ)は、島根県出雲市斐川町にある神社。『延喜式神名帳』にある「立虫神社(出雲国・出雲郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。境内社に万九千神社がある。御朱印の有無は不明。
『出雲国風土記』の「立虫社」である。御祭神は須佐之男命の子である五十猛神・大屋津姫命・抓津姫命の兄妹。合祀した客神社の御祭神である大穴牟遅命・伊弉冊大神を配祀する。
御祭神とその父・須佐之男命は、仁多郡鳥上の峰に天降り、木種を四方に播き植えた後、当地に下り来て鎮座したと伝わる。当地開拓の神。
当社はもともと、古くは出雲郡河内郷(現 仏経山西方の斐伊川中州あたりか)に鎮座していたが、たびたび遷座し、江戸時代の寛文年間(1661年-1673年)以前には現在地より南西約700メートルほどの斐伊川の中州(現 神立橋の大津町付近)に鎮座していた。
しかし、大洪水に伴う斐伊川の流路変更の影響により、寛文10年(1670年)、近隣の万九千社境内に社殿を造営した。
以降、神立大明神(かんだちだいみょうじん)と呼ばれたが、これはもともとは万九千社による命名と思われ、一説には遷座とともに万九千社に合祀されたとも。
明治維新以降は古称に復し、現社号に改めて村社に列した。万九千社は無格社となり、当社境内社となった。大正9年(1920年)、あるいは大正15年(1926年)には、旧千家村に鎮座していた客神社を合祀した。
千家村は出雲大社領であり、客神社(きゃくじんじゃ)は千家国造崇敬の社だった。毎年11月、神魂神社において執行される火継儀祭の際、宿泊所が設けられ、客神社に供物を捧げて祭事が執行されたと伝わる。
【ご利益】
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