南部片富士・岩手山、美味の雪解け水「神山の秘水」で知られる
[住所]岩手県岩手郡雫石町長山頭無野
[電話]019-692-2111
岩手山神社(いわてさんじんじゃ)は、岩手県岩手郡雫石町にある神社。新山堂、岩鷲山新山宮などとも呼ばれる。お新山と親しまれ、例祭は旧暦5月27日。御朱印の有無は不明。
岩手山は岩鷲山、霧山獄とも称せられ、盛岡市の北西約24キロ、雫石町・滝沢村・西根町・松尾村の二町二ヶ村にまたがる。最高峰は薬師ヶ嶽で2041メートル。奥州第一の高山で、古来より信仰の対象となってきた。
秀麗な円錐形をしており、奥の富士、南部片富士などとも呼ばれる。日本百名山で、宮沢賢治が愛したことでも有名。「婚活登山」が開催されて話題になった。
桓武天皇の延暦年間(782年-806年)、坂上田村麻呂が遠征中に、山中に伏匿する賊徒赤頭の高丸を誅し、民害を除き、人々を安堵させるために創祀。
その際、宇迦御魂神・大穴牟遅命・日本武尊の三神を勧請し、大同2年(807年)に田村麻呂自ら祭祀したと伝わる。後に国土鎮護のため、朝野から崇敬を集めたという。
田村麻呂は高見館を築いて本城とし、次子綾田麿をこれに置くとともに、当地鎮護の神として伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の御分霊も勧請した。
そのうちの内宮、神明社が当社に置かれたとされる。現在は盛岡八幡宮の境内社となっている。また、外宮は現在、大宮神社となっている。
文治5年(1189年)9月、源頼朝の奥州征伐の際、工藤行光が岩鷲山大権現の冥助により大功をたて、岩手郡を賜り、岩鷲山大宮司となった。工藤氏は厨川に定住し、南部家に仕え、後に栗谷川氏と称した。別当は円臧院。
永禄年間(1558年-1570年)、石川高信の側室が男子出生を岩鷲山に祈願し、後の南部信直を生む。南部家を継いだ信直は当社に社領として200石を寄進したという。
延宝2年(1674年)、円臧院椿宥が再建。元禄4年(1691年)、南部氏29代当主で南部藩藩主南部重信が新たに建立したという。
宝永4年(1707年)、円臧院八代宥栄により再建。寛保2年(1742年)にも再建され、文政5年(1822年)に新山堂の再興という記録が残る。
明治2年(1869年)、野火により類焼、その後再建されたようだが、昭和56年(1981年)に新たに再建された。境内には夫婦杉があり、町指定天然記念物。
手水舎の水などは「神山の秘水」として知られ、岩手山の雪解け水。美味として有名で、遠方からも水汲みの参拝者が後を絶たない。
「神山の秘水」を中心としたパワースポットとしても知られる。馬返し登山口まで車で入ることができるが、そこから当社までは距離がある。奥宮まで行くには、さらに登山が必要になる。
当社以外に岩手山神社は各地にあり、盛岡市中央通や滝沢市などにもある。このうち、盛岡市のものは当社を勧請したもののようで、城下からの岩手山の遥拝所として、やはり新山堂などと呼ばれた。
滝沢市のものも田村麻呂による創建と伝わるが、前九年の役(1051年-1062年)との関わり。
そのため、どの「岩手山神社」か特定が難しい状況ながら、「岩手山神社」は日本海軍の装甲巡洋艦「磐手」の艦内神社に分祀しているとされる。当社が勧請元の可能性がある。
【ご利益】
縁結び、金運、リフレッシュ、健康長寿など
【関連記事】
・艦内神社とは? - 日本特有の「恐怖の海」への対処法 - 日本海軍の艦内神社
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[電話]019-692-2111
岩手山神社(いわてさんじんじゃ)は、岩手県岩手郡雫石町にある神社。新山堂、岩鷲山新山宮などとも呼ばれる。お新山と親しまれ、例祭は旧暦5月27日。御朱印の有無は不明。
岩手山は岩鷲山、霧山獄とも称せられ、盛岡市の北西約24キロ、雫石町・滝沢村・西根町・松尾村の二町二ヶ村にまたがる。最高峰は薬師ヶ嶽で2041メートル。奥州第一の高山で、古来より信仰の対象となってきた。
秀麗な円錐形をしており、奥の富士、南部片富士などとも呼ばれる。日本百名山で、宮沢賢治が愛したことでも有名。「婚活登山」が開催されて話題になった。
桓武天皇の延暦年間(782年-806年)、坂上田村麻呂が遠征中に、山中に伏匿する賊徒赤頭の高丸を誅し、民害を除き、人々を安堵させるために創祀。
その際、宇迦御魂神・大穴牟遅命・日本武尊の三神を勧請し、大同2年(807年)に田村麻呂自ら祭祀したと伝わる。後に国土鎮護のため、朝野から崇敬を集めたという。
田村麻呂は高見館を築いて本城とし、次子綾田麿をこれに置くとともに、当地鎮護の神として伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の御分霊も勧請した。
そのうちの内宮、神明社が当社に置かれたとされる。現在は盛岡八幡宮の境内社となっている。また、外宮は現在、大宮神社となっている。
文治5年(1189年)9月、源頼朝の奥州征伐の際、工藤行光が岩鷲山大権現の冥助により大功をたて、岩手郡を賜り、岩鷲山大宮司となった。工藤氏は厨川に定住し、南部家に仕え、後に栗谷川氏と称した。別当は円臧院。
永禄年間(1558年-1570年)、石川高信の側室が男子出生を岩鷲山に祈願し、後の南部信直を生む。南部家を継いだ信直は当社に社領として200石を寄進したという。
延宝2年(1674年)、円臧院椿宥が再建。元禄4年(1691年)、南部氏29代当主で南部藩藩主南部重信が新たに建立したという。
宝永4年(1707年)、円臧院八代宥栄により再建。寛保2年(1742年)にも再建され、文政5年(1822年)に新山堂の再興という記録が残る。
明治2年(1869年)、野火により類焼、その後再建されたようだが、昭和56年(1981年)に新たに再建された。境内には夫婦杉があり、町指定天然記念物。
手水舎の水などは「神山の秘水」として知られ、岩手山の雪解け水。美味として有名で、遠方からも水汲みの参拝者が後を絶たない。
「神山の秘水」を中心としたパワースポットとしても知られる。馬返し登山口まで車で入ることができるが、そこから当社までは距離がある。奥宮まで行くには、さらに登山が必要になる。
当社以外に岩手山神社は各地にあり、盛岡市中央通や滝沢市などにもある。このうち、盛岡市のものは当社を勧請したもののようで、城下からの岩手山の遥拝所として、やはり新山堂などと呼ばれた。
滝沢市のものも田村麻呂による創建と伝わるが、前九年の役(1051年-1062年)との関わり。
そのため、どの「岩手山神社」か特定が難しい状況ながら、「岩手山神社」は日本海軍の装甲巡洋艦「磐手」の艦内神社に分祀しているとされる。当社が勧請元の可能性がある。
【ご利益】
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