夫婦檜や樹齢3000年の大楠、天平の昔から伝わる歩射祭や流鏑馬
[住所]佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335
[電話]0954-22-2976
武雄神社(たけおじんじゃ)は、佐賀県武雄市武雄町にある神社。夫婦檜、樹齢3000年の大楠で知られる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は、武内宿禰(たけうちのすくね)・武雄心命(たけおこころのみこと)・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)・応神天皇(おうじんてんのう)の五柱で、総称して武雄大明神と号す。
武雄心命は『日本書紀』に見える武内宿禰の父。『古事記』では、建内宿禰の父は比古布都押之信命となっている。武雄心命の妻で、武内宿禰の母である影媛(『古事記』では山下影日売)は、当社の境外末社である黒尾神社で祀られている。
また、武内宿禰の子である平群木兎宿禰(へぐりつくのすくね)が当社下宮(下ノ宮)で祀られている。
『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとある。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)に鎮座し創祀された。
天平7年(735年)、初代宮司伴行頼に「吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう」との神託があった。
行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し、北麓に奉遷し武雄宮が創建された。
平安時代、大宰府の府社とされ、祭礼に国使が参向するなど、杵島郡の鎮守として郡民の崇敬を受け、肥前における名社として深く重んぜられた。その時代の218通にもおよぶ古文書が現存している。
元永年間(1118年-1120年)、武雄2代領主後藤資茂が、朝夕秀麗な御船山の麓に鎮座する当社を望み、築城の適地と思い、朝廷に奏請して当社を現在地である舳嶽東麓に遷した。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは、源頼朝が当社に密使を使わせ平家追討祈願をした。平家を滅ぼした頼朝は、神恩感謝のため、後鳥羽天皇の勅使と名代の御家人を当社に派遣して「御教書」を送った。
この参詣を歓迎して、武雄4代領主後藤宗明が流鏑馬を奉納し、以来、氏子によって、「武雄の流鏑馬」として連綿と継承されてきた。また、これを機に当社と源氏との関係は密接になったという。
鎌倉中期の元寇では、伏見天皇より異国降伏の祈祷の綸旨を賜る。
本紀によれば、文永の役(1274年)の10月20日の夜、当社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げていったとあり、弘安の役(1281年)では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとある。この霊験により「九州五社ノ内」と称された。
境内には、城山稲荷神社、塩釜神社、荒神社がある他、夫婦檜(むすびの樹)がある。当社の御祭神である仲哀天皇・神功皇后の御神威によって、2本の檜が根元で結ばれ、樹の中ほどで再び枝が合着したといわれている。
当社からもみじ通りを進むと、樹齢3000年と伝わる御神木である「武雄の大楠」がある。根回り26メートル、高さ27メートル、根元の空洞の広さは12畳敷。全国で6位の巨木とされる。
また、境内には心字の池がある。例祭には心身を祓い清める清祓の儀が行われ、この池に時折姿を現す白鷺は、当社の使いであり象徴とされ「白鷺伝説」にあやかり開運招福の鳥として親しまれている。
例祭は10月23日。800年の伝統がある流鏑馬が県道33号を挟んで、下ノ宮が近くに鎮座する専用の馬場で奉納される。2月17日には天平7年の神託以来の伝統、県内最古の神事といわれる歩射祭が執り行われる。
【ご利益】
健康長寿・武運長久・開運招福・厄災除け・縁結び・リフレッシュ(公式HP)

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・佐賀県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、佐賀県に鎮座している神社の一覧
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武雄神社(たけおじんじゃ)は、佐賀県武雄市武雄町にある神社。夫婦檜、樹齢3000年の大楠で知られる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は、武内宿禰(たけうちのすくね)・武雄心命(たけおこころのみこと)・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)・応神天皇(おうじんてんのう)の五柱で、総称して武雄大明神と号す。
武雄心命は『日本書紀』に見える武内宿禰の父。『古事記』では、建内宿禰の父は比古布都押之信命となっている。武雄心命の妻で、武内宿禰の母である影媛(『古事記』では山下影日売)は、当社の境外末社である黒尾神社で祀られている。
また、武内宿禰の子である平群木兎宿禰(へぐりつくのすくね)が当社下宮(下ノ宮)で祀られている。
『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとある。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)に鎮座し創祀された。
天平7年(735年)、初代宮司伴行頼に「吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう」との神託があった。
行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し、北麓に奉遷し武雄宮が創建された。
平安時代、大宰府の府社とされ、祭礼に国使が参向するなど、杵島郡の鎮守として郡民の崇敬を受け、肥前における名社として深く重んぜられた。その時代の218通にもおよぶ古文書が現存している。
元永年間(1118年-1120年)、武雄2代領主後藤資茂が、朝夕秀麗な御船山の麓に鎮座する当社を望み、築城の適地と思い、朝廷に奏請して当社を現在地である舳嶽東麓に遷した。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは、源頼朝が当社に密使を使わせ平家追討祈願をした。平家を滅ぼした頼朝は、神恩感謝のため、後鳥羽天皇の勅使と名代の御家人を当社に派遣して「御教書」を送った。
この参詣を歓迎して、武雄4代領主後藤宗明が流鏑馬を奉納し、以来、氏子によって、「武雄の流鏑馬」として連綿と継承されてきた。また、これを機に当社と源氏との関係は密接になったという。
鎌倉中期の元寇では、伏見天皇より異国降伏の祈祷の綸旨を賜る。
本紀によれば、文永の役(1274年)の10月20日の夜、当社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げていったとあり、弘安の役(1281年)では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとある。この霊験により「九州五社ノ内」と称された。
境内には、城山稲荷神社、塩釜神社、荒神社がある他、夫婦檜(むすびの樹)がある。当社の御祭神である仲哀天皇・神功皇后の御神威によって、2本の檜が根元で結ばれ、樹の中ほどで再び枝が合着したといわれている。
当社からもみじ通りを進むと、樹齢3000年と伝わる御神木である「武雄の大楠」がある。根回り26メートル、高さ27メートル、根元の空洞の広さは12畳敷。全国で6位の巨木とされる。
また、境内には心字の池がある。例祭には心身を祓い清める清祓の儀が行われ、この池に時折姿を現す白鷺は、当社の使いであり象徴とされ「白鷺伝説」にあやかり開運招福の鳥として親しまれている。
例祭は10月23日。800年の伝統がある流鏑馬が県道33号を挟んで、下ノ宮が近くに鎮座する専用の馬場で奉納される。2月17日には天平7年の神託以来の伝統、県内最古の神事といわれる歩射祭が執り行われる。
【ご利益】
健康長寿・武運長久・開運招福・厄災除け・縁結び・リフレッシュ(公式HP)

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