下鴨神社の協力で江戸期に復興した、サッカー必勝祈願の古社
[住所]奈良県宇陀市榛原高塚42
[電話]0745-82-2046

八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)は、奈良県宇陀市榛原高塚にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「八咫烏神社(大和国・宇陀郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

御祭神は建角身命。鴨建角身命とも呼ばれ、山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の御祭神として知られる。

初代神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、皇軍の勝利に貢献した「八咫烏」の化身と伝えられている(『古事記』該当部分)。

『続日本紀』に文武天皇の時代、慶雲2年(705年)に八咫烏社を祭るとの記述が見え、これが当社の創祀。同時期に、椋下神社も祀られている。

古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰により、大いに栄えた。

しかし、南朝の衰退と度重なる戦禍に見舞われて以後、江戸時代中期まで廃絶寸前の状態となった。「やたがらす」が訛って「をとごろす」という俗称が伝えられた。

やがて、江戸時代の文政年間(1818年-1831年)に京都の下鴨神社の神官の目にとまり、その働きかけと在郷有志の協力により再興がなった。

本殿が現在のような春日造に作り替えられたのもこの頃とされる。旧本殿の石造小祠は今も本殿の横に現存する。

それ以降、例大祭の折には下鴨神社から奉幣使が送られ、祭典が執り行われていたが、奉幣使をともなう大祭は当時わずか9戸ばかりであった当地の氏子には負担があまりにも大きすぎたため、明治初年に中止となった。

この当たりにも、平城京から平安京へ、大和国から山城国へ、その両者の盛衰の違いが露わになっていることが分かる。

その後、大正3年(1917年)に神社合祀令により近隣の鎮守の社を当地で祀ることになったため、振興した。昭和になると紀元二千六百年記念行事の関係で、県社に昇進するとともに神域の拡張と整備が行われた。

現在では日本サッカー協会のシンボルマークに三つ足烏が使用され、これが八咫烏とされるため、サッカー日本代表、あるいは応援しているJリーグの必勝祈願の参拝なども多く、古来とは別の形での勝運の神、サッカー神社として認知されている。

例祭は11月3日。当社境内から東に、『古事記』にも歌われた伊那佐山がある。

【ご利益】
サッカー必勝祈願・勝運(公式HP
八咫烏神社(宇陀市) - 下鴨神社の協力で江戸期に復興した、サッカー必勝祈願の古社
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八咫烏神社(宇陀市)の御朱印