538段の石段と勇壮な火祭りで知られる、熊野三所大神が最初に降臨した地
[住所]和歌山県新宮市神倉1-13-8
[電話]0735-22-2533

神倉神社(かみくらじんじゃ/かんのくらじんじゃ)は、和歌山県新宮市神倉にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、「熊野三山元宮」などとある御朱印を頂ける。

熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。御朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取り扱っている。主祭神は天照大神高倉下命。後述するように、いずれも神武東遷と絡む(『古事記』該当部分)。

新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。

山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。2月の勇壮な火祭り「お燈とうまつり」では、燃えさかるたいまつを手にした白装束に荒縄姿の「上り子」が駆け降りることでも知られている。

山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩が御神体として祀られている。

この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土している。

創建年代は第12代景行天皇58年。しかしそれに先行する、初代神武天皇による東遷において、神倉山は天磐盾(あめのいわたて)の山で、高倉下命がはせ参じ、八咫烏が遣わされた地とされる。

『熊野権現垂迹縁起』によれば、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所とされる。熊野三所大神が最初に降臨した地で、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された。

なお、熊野権現や熊野信仰の発祥の地とされる神社に、阿須賀神社がある。「お燈とうまつり」では、当社と熊野速玉大社の間、神職ら一行の奉幣が進む順路にも阿須賀神社がある。

平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、『平家物語』巻一〇の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる。

鎌倉時代の建長3年(1251年)2月14日に火災により消失したが、執権の北条時頼から助成を得て再建された。中世には、神倉聖と称される社僧のほか、その下役の残位坊、妙心寺(妙心尼寺)・華厳院・宝積院・三学院の神倉本願四ヵ寺が運営に当たった。

南北朝時代の動乱による荒廃の後はもっぱら妙心尼寺が勧進権を掌握した。戦国時代から近世初期にかけても度々災害に見舞われているが、なかでも天正16年(1588年)には、豊臣秀長の木材奉行によって放火され、境内がことごとく焼失した。

近世以降は、紀州徳川家や、新宮領主の浅野氏・水野氏の崇敬を集めた。慶長7年(1602年)には浅野氏より社領として63石を与えられたほか、正保2年(1645年)には一年の祈祷料として、米3石6斗と燈明料米1石8斗が与えられた。

『紀伊続風土記』が伝えるところによると、近世の境内には社殿と並宮のほか、崖上に掛造の拝殿があり、大黒天を祀る御供所、末社として満山社、子安社、中の地蔵堂などがあったが、明治3年(1870年)年の台風で倒壊、その後荒廃したため、1907年(明治40年)年には、熊野速玉大社に合祀された。

しかし、大正7年(1918年)年、岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和期に社務所、鳥居などが再建された。現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社が管理する。

例祭は2月6日で、御燈祭。「お燈とうまつり」の名称で親しまれる火祭り。県無形民俗文化財で、高倉下命が松明をかかげて神武天皇を熊野の地に迎え入れたことが始まりとされる。

【ご利益】
身体壮健、出世開運
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