古くは宇佐神宮を上回る大社で豊前国一宮とも、香春三山の神を祀る式内三座
[住所]福岡県田川郡香春町香春733
[電話]0947-32-2868
香春神社(かわらじんじゃ)は、福岡県田川郡香春町にある神社。極めて古い時代には豊前国一宮とされたとも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 豊前国 田川郡「辛国息長大姫大目命神社」「忍骨命神社」「豊比咩神社」に比定される式内社(いずれも小社)。近代社格は県社。
豊前国の式内社は全部で六座。そのうちの三座は宇佐神宮であり、残りの三座を当社が占めることになる。ただし、宇佐神宮三座がいずれも名神大社であるのに対して、当社三座はいずれも小社。
しかし、『延喜式』以前の平安時代最初期までは、後述の神階の高さもあり、宇佐神宮を凌ぐ大社として存在した可能性がある。
実際に古い記録では、豊前国一宮は現在の宇佐神宮ではなく、当社を指す場合があるという。
もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった三社が、和銅2年(709年)に現在地に移設したのが、現在の当社。
その際は香春宮と呼ばれた。それ以前の三社それぞれの創祀・創建は不詳。辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)のこと。
これは大和国の主要な大社である大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)などと比べても極めて早い段階となる。
山城の平安京に遷都した後の平安時代は、大和国の古社への崇敬が若干衰えるとも指摘されるが、それを加味したとしても、いずれも二十二社の名だたる名社。
それを押さえての神階の高さから考えると、豊前国のもとの一宮というのもあながち的外れではない。
順徳天皇の建暦2年(1212年)8月21日の宣旨、後嵯峨天皇の寛元元年(1243年)10月8日の宣旨などでは、33年に一度の造営や、当社造営が当国課役とする旨の内容が見られる。
文永6年(1269年)3月23日の下知では、当国国司は、毎年春冬二季の祭祀に、必ず国司代を参向させることなどが記されている。
『延喜式』神名帳における格に関わらず、中世においても朝廷や武家からの崇敬が厚かったことがうかがえる。
御祭神は、三社の御祭神である辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命。『日本三代実録』では、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している。
当社の社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とある。
辛国息長大姫大目命について、異説としては、唐土に関わらず、新羅との結びつきが強いとされ、『古事記』にもある阿加流比売神に比定するものがある。
また、辛国は三韓征伐を指し、名前の類似から神功皇后に充てるものもある。他に、道鏡や染色に関する技術集団の、新羅系の赤染氏との関係が指摘される。
河内国大県郡の式内社に、赤染氏(常世連)の祖神である常世岐姫命を祀る常世岐姫神社(八王子神社)がある。辛国息長大姫大目命と常世岐姫命は同神の可能性もある。
「第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる」、「第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」とある。
豊比売命は近くの古宮八幡神社の御祭神でもあり、豊玉毘売命に相当することになるが、豊玉毘売命が住吉三神の母というのはあまり言われない。
5月5日の当社の例祭の際は、古宮八幡神社から豊比売命が当社に下向する。古宮八幡神社が当社の元宮であるとの指摘もある。
文化財として、神社縁起書三巻、楠正成奉納の鈴及鏃、伝教大師奉納の捻珠がある。
【ご利益】
海上・交通安全、鉱山開発、産業振興など

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『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 豊前国 田川郡「辛国息長大姫大目命神社」「忍骨命神社」「豊比咩神社」に比定される式内社(いずれも小社)。近代社格は県社。
豊前国の式内社は全部で六座。そのうちの三座は宇佐神宮であり、残りの三座を当社が占めることになる。ただし、宇佐神宮三座がいずれも名神大社であるのに対して、当社三座はいずれも小社。
しかし、『延喜式』以前の平安時代最初期までは、後述の神階の高さもあり、宇佐神宮を凌ぐ大社として存在した可能性がある。
実際に古い記録では、豊前国一宮は現在の宇佐神宮ではなく、当社を指す場合があるという。
もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった三社が、和銅2年(709年)に現在地に移設したのが、現在の当社。
その際は香春宮と呼ばれた。それ以前の三社それぞれの創祀・創建は不詳。辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)のこと。
これは大和国の主要な大社である大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)などと比べても極めて早い段階となる。
山城の平安京に遷都した後の平安時代は、大和国の古社への崇敬が若干衰えるとも指摘されるが、それを加味したとしても、いずれも二十二社の名だたる名社。
それを押さえての神階の高さから考えると、豊前国のもとの一宮というのもあながち的外れではない。
順徳天皇の建暦2年(1212年)8月21日の宣旨、後嵯峨天皇の寛元元年(1243年)10月8日の宣旨などでは、33年に一度の造営や、当社造営が当国課役とする旨の内容が見られる。
文永6年(1269年)3月23日の下知では、当国国司は、毎年春冬二季の祭祀に、必ず国司代を参向させることなどが記されている。
『延喜式』神名帳における格に関わらず、中世においても朝廷や武家からの崇敬が厚かったことがうかがえる。
御祭神は、三社の御祭神である辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命。『日本三代実録』では、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している。
当社の社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とある。
辛国息長大姫大目命について、異説としては、唐土に関わらず、新羅との結びつきが強いとされ、『古事記』にもある阿加流比売神に比定するものがある。
また、辛国は三韓征伐を指し、名前の類似から神功皇后に充てるものもある。他に、道鏡や染色に関する技術集団の、新羅系の赤染氏との関係が指摘される。
河内国大県郡の式内社に、赤染氏(常世連)の祖神である常世岐姫命を祀る常世岐姫神社(八王子神社)がある。辛国息長大姫大目命と常世岐姫命は同神の可能性もある。
「第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる」、「第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」とある。
豊比売命は近くの古宮八幡神社の御祭神でもあり、豊玉毘売命に相当することになるが、豊玉毘売命が住吉三神の母というのはあまり言われない。
5月5日の当社の例祭の際は、古宮八幡神社から豊比売命が当社に下向する。古宮八幡神社が当社の元宮であるとの指摘もある。
文化財として、神社縁起書三巻、楠正成奉納の鈴及鏃、伝教大師奉納の捻珠がある。
【ご利益】
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