「蜷城の獅子舞」で知られる三韓征伐を守護した出雲三神を祀る社
[住所]福岡県朝倉市林田210
[電話]0946-22-5358
美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は、福岡県朝倉市林田にある神社。蜷郷美奈宜神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 筑前国 下座郡「美奈宜神社三座」に比定される式内社(名神大社)の論社。近代社格では県社。
御祭神は、素戔嗚尊(祇園神)、大己貴命(大黒神)、事代主命(恵比須神)で、総称して出雲三神としている。
第12代景行天皇の後を受け、第14代仲哀天皇と神功皇后は、熊襲征伐を進めるが、仲哀天皇は急病のため崩御。
神功皇后はこれを秘し、新羅を討つべく出師の計画を立て、兵員を集め、兵船・軍器を整え、神々を祀って出征。
いわゆる三韓征伐である。この時、皇后は航海中の船中で三神に戦勝を祈願したと伝わる。戦勝後、凱旋した神功皇后が三神を祀ったのが当社の創祀だという。
摂政2年、神功皇后が九州滞在時に、古処の山に住む羽白熊鷲という悪者退治を村人が懇願した。
皇后は「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで、一晩で城を作り、潮満玉を使って、一度に水を入れ水攻めにして滅ぼしなさい」との神託を得、村の平穏を取り戻したという。
これに感謝した神功皇后は、神を祀る社を建てようと思い、一羽の白鷺を放った。白鷺は空に舞い上がり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞い下りた。
そこが蜷城(になぎ)の地で、後世に美奈宜(みなぎ)とあて、現社号となったという。
また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼び、なまって、ヒナシロという地名になったとも。この白鷺塚は今も片延字白鷺1番地に残されている。
式内社「美奈宜神社」の論社は他に、朝倉市荷原に同名神社がある。式内社「美奈宜神社」は、『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)正月廿七日に從五位上とある。
延元2年(1338年)、菊地武敏軍と足利尊氏の先陣小弐頼尚軍が戦った筑後川水城渡の戦で戦火に遭い、社殿や宝物、記録類の一切を消失し、以来衰退。しかし、足利尊氏は神慮を恐れて社殿を再興したと伝わる。
また永正6年(1509年)、秋月城主秋月伊豫守種時が社殿を再建し、神輿及び清道旗を奉納、神幸行列の先駆として現在まで継続されている。
慶長6年(1601年)、福岡藩初代藩主黒田長政により社殿が造営され、下座郡総社と定められた。
元禄15年(1702年)には神門が建築され、元禄17年(1704年)に石鳥居が建納され、貝原益軒の妻江島氏の筆にて柱の銘が刻まれている。いずれも現存する。
弘化4年(1847年)、1650年祭を執行。文政11年(1823年)に福岡藩大老黒田播磨により、現存社殿が改修されている。明治30年(1897年)に県社に昇格。
例祭は10月21日で、おくんちが奉納される。秋季大祭であり、御神幸で、「蜷城の獅子舞」として県指定無形民俗文化財に指定されている。
獅子舞は雌雄2対の獅子で構成され、獅子は胴体をシュロで編み、獅子役に足絆にもシュロを使用するなどの特徴がある。
舞としての特徴では、筑前地方に多い伎楽系統の獅子舞とは異なり舞楽を伴わず、芸能的な部分が少ない。病気除けや豊作を願うという信仰、祓いの獅子の姿がよく伝えられているとされる。
【ご利益】
厄祓い・無病息災、五穀豊穣・商売繁盛、縁結び(公式HP)
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『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 筑前国 下座郡「美奈宜神社三座」に比定される式内社(名神大社)の論社。近代社格では県社。
御祭神は、素戔嗚尊(祇園神)、大己貴命(大黒神)、事代主命(恵比須神)で、総称して出雲三神としている。
第12代景行天皇の後を受け、第14代仲哀天皇と神功皇后は、熊襲征伐を進めるが、仲哀天皇は急病のため崩御。
神功皇后はこれを秘し、新羅を討つべく出師の計画を立て、兵員を集め、兵船・軍器を整え、神々を祀って出征。
いわゆる三韓征伐である。この時、皇后は航海中の船中で三神に戦勝を祈願したと伝わる。戦勝後、凱旋した神功皇后が三神を祀ったのが当社の創祀だという。
摂政2年、神功皇后が九州滞在時に、古処の山に住む羽白熊鷲という悪者退治を村人が懇願した。
皇后は「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで、一晩で城を作り、潮満玉を使って、一度に水を入れ水攻めにして滅ぼしなさい」との神託を得、村の平穏を取り戻したという。
これに感謝した神功皇后は、神を祀る社を建てようと思い、一羽の白鷺を放った。白鷺は空に舞い上がり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞い下りた。
そこが蜷城(になぎ)の地で、後世に美奈宜(みなぎ)とあて、現社号となったという。
また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼び、なまって、ヒナシロという地名になったとも。この白鷺塚は今も片延字白鷺1番地に残されている。
式内社「美奈宜神社」の論社は他に、朝倉市荷原に同名神社がある。式内社「美奈宜神社」は、『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)正月廿七日に從五位上とある。
延元2年(1338年)、菊地武敏軍と足利尊氏の先陣小弐頼尚軍が戦った筑後川水城渡の戦で戦火に遭い、社殿や宝物、記録類の一切を消失し、以来衰退。しかし、足利尊氏は神慮を恐れて社殿を再興したと伝わる。
また永正6年(1509年)、秋月城主秋月伊豫守種時が社殿を再建し、神輿及び清道旗を奉納、神幸行列の先駆として現在まで継続されている。
慶長6年(1601年)、福岡藩初代藩主黒田長政により社殿が造営され、下座郡総社と定められた。
元禄15年(1702年)には神門が建築され、元禄17年(1704年)に石鳥居が建納され、貝原益軒の妻江島氏の筆にて柱の銘が刻まれている。いずれも現存する。
弘化4年(1847年)、1650年祭を執行。文政11年(1823年)に福岡藩大老黒田播磨により、現存社殿が改修されている。明治30年(1897年)に県社に昇格。
例祭は10月21日で、おくんちが奉納される。秋季大祭であり、御神幸で、「蜷城の獅子舞」として県指定無形民俗文化財に指定されている。
獅子舞は雌雄2対の獅子で構成され、獅子は胴体をシュロで編み、獅子役に足絆にもシュロを使用するなどの特徴がある。
舞としての特徴では、筑前地方に多い伎楽系統の獅子舞とは異なり舞楽を伴わず、芸能的な部分が少ない。病気除けや豊作を願うという信仰、祓いの獅子の姿がよく伝えられているとされる。
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