崇神朝の創建、藤原鎌足も参詣した歴史ある名神大社
[住所]大阪府茨木市西福井3-36-1
[電話]072-643-0139

新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は、大阪府茨木市西福井にある神社。単に「福井神社」とも、また一般的には「新屋神社」と略称される。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 島下郡「新屋坐天照御魂神社三座」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)の論社。近代社格では郷社。神社本庁に属さない単立神社である。

御祭神は、天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ)。またの名を天照国照彦天火明大神(あまてるくにてるひこあめのほあかりのおおかみ)、饒速日大神(にぎはやひのおおかみ)としている。

相殿神に天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)、天饒石国饒石天津彦火瓊々杵大神(あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのおおかみ)を祀る。

式内社「新屋坐天照御魂神社」の論社は当社の他、同市内に宿久庄西河原に同名の神社がある。

当社から西河原・宿久庄はそれぞれ冬至における日の出・日の入りの方角に位置し、逆に西河原から西福井は夏至の日の入りの方角に、宿久庄から見ると夏至の日の出の方角にあたっている。

三座とあるので、各社いずれもが式内社の可能性もある。神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「新屋社三座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。

社伝によれば、第10代崇神天皇の御代に神が当地に降臨し、崇神天皇7年に伊香色雄命に勅して祀らせたのに始まるという。

当社名こそ出ていないが、『古事記』にも伊香色雄命が「祭祀に使う皿を作り、天地の神々の社を定めさせた」とある(『古事記』該当部分)。

第12代景行天皇20年には、この神を天照皇大神と称して皇女五百野媛に祀らせた。

神功皇后の三韓出兵の際、当地の川原で禊をして当社を祀り、凱戦後に当社御祭神の幸魂と荒魂を西の川上(宿久庄)と東の川下(西河原)に分祀したという。

当社の裏山一帯に約30基の円墳からなる新屋古墳群があり(現在では10数基を残すのみ)、当社奉斎氏族(新屋連)との関連が指摘されている。

第26代継体天皇の時代、初めて奉幣使が遣わされて以来、第90代亀山天皇の時代まで219回の奉幣使が遣わされた。

皇極3年(644年)には中臣鎌子連(後の藤原鎌足)が神祇伯に任じられ、奉幣使として当社に参詣したという。

『新抄格勅符抄』に大同元年(806年)、「新屋神」に神封1戸を充てたと見え、『続日本後紀』嘉祥2年(849年)12月15日条に「奉授伴馬立天照神、伴酒著神。從五位下」とある。

『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に、「奉授…摂津国…従五位下勲八等新屋天照御魂神、並従四位下」とある。

また同年5月26日条には「摂津国従五位下伴馬立天照神、伴酒着神、並授正五位下」とある。

つまり、『延喜式』神名帳にある三座は、新屋(坐)天照御魂神、伴馬立天照神、伴酒着神とも考えられている。

中世以降は島下郡の総社として、摂津国守護や地頭を始め、庶民の崇敬を集めた。大永7年(1527年)に兵乱の害を被ってから衰微したが、天正12年(1584年)、領主中川清秀によって再興される。

清秀の内室性寿院の発願により社殿なども造営され、以降中川氏から崇敬され、同氏が豊後に転封してからも密接な関係を保った。

江戸時代後期の天保年間(1830年-1844年)の社殿造替に際しても同氏から寄進を受けた。この時の社殿が現存する。

明治5年(1872年)に郷社に列せられた。

摂末社に、須佐之男神社、六所神社(高皇産霊大神倭媛大神市杵島媛大神天手力雄大神大歳大神応神天皇)、若宮八幡神社(仁徳天皇)、稲生神社(宇賀御魂神)、天満神社(菅原道真公)、石神社2社がある。

例祭は10月の体育の日の前日の日曜日で、秋季大祭。平安時代の名神祭が起源であるとされる献灯祭(火上)が夏祭として8月16日に行われる。

【ご利益】
鎮魂、病気平癒、農耕の神(公式HP
新屋坐天照御魂神社(西福井) - 崇神朝の創建、藤原鎌足も参詣した歴史ある名神大社
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新屋坐天照御魂神社(西福井)の御朱印