日本武尊の熊襲討伐にちなむ白鳥伝説、軍神として崇敬された古社
[住所]宮崎県えびの市大字末永1479
[電話]0984-35-1111

白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、宮崎県えびの市南部の白鳥山北中腹にある神社。近代社格では県社霧島六社権現の一社に数えられる。御朱印の有無は不明。

御祭神は日本武尊。天暦年間(947年-957年)、あるいは応和年間(961年-964年)に、霧島山を訪れていた性空が白鳥山の頂上付近にある六観音御池の畔の六観音堂で法華経を唱えていたところ、白髪の老人が現れた。

白髪の老人は、「我は日本武尊であり白鳥となってこの山に住んでいるが、我を祀る神社を建てよ」と語り、白鳥と化して飛び去った。そこで、白鳥山中腹に聖観音を本地とする白鳥権現社として創建された。

日本武尊が霧島山中にあらわれたのは、かつて熊襲を討った因縁があった(『古事記』該当箇所)ためといわれ、そこから後世軍神として崇められることともなった。関東遠征と比べ、九州遠征における日本武尊に関わる事跡は数が少ないが、その希少・貴重な一例。

性空は当社創祀と同時に近くに別当寺として白鳥山金剛乗院満足寺(天台宗)を創建。後に荒廃して、当社のみが残される状態となったため、室町時代初期の応永10年(1403年)に光尊阿闍梨によって真言宗寺院として再興された。

御祭神が軍神とされていたことから、天正4年(1576年)に島津義久が参詣するなど領主の崇敬を集め、天正20年(1592年)には社領30町(3600坪)が諸役免除とされている。

島津氏からは代々の崇敬を受け、島津義弘は戦に赴く前に武運を祈願し、慶長6年(1601年)から同10年にかけて社殿の新築を行ったり、社領200石を寄進するなどした。

その後も同氏による当社への祈願や戦勝の報賽としての寄進が行われている。また、山麓の飯野郷や丘郷では白鳥を殺すことが禁じられていたという。

『三国名勝図会』によると、当社のみならず、室町期に再興された別当寺である満足寺は、江戸時代には参詣者も多く隆盛であった。近くに白鳥温泉があり、江戸時代には寺院の僧侶たちが入浴していた。

元禄16年(1703年)、境内にあったアカマツの巨木が東大寺大仏殿の屋根を支える虹梁として使用されたという。

明治維新に際して現社名へ改称し、明治3年(1870年)に満足寺は廃寺となり、明治38年(1905年)に県社列格、同40年(1907年)2月に神饌幣帛料供進神社の指定を受けた。

例祭は9月23日。戦前までは例祭に天鈿女命の舞とされた神化舞が奉納されていた。現在は毎年11月上旬にえびの白鳥観光祭が開催される。

【ご利益】
武運長久・勝運、旅行・交通安全
白鳥神社 宮崎県えびの市末永
【関連記事】
霧島六社権現 - 鹿児島・宮崎県境の霧島山への1000年以上続く信仰、現在もパワースポット
宮崎県の旧県社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
宮崎県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、宮崎県に鎮座している神社の一覧

霧島六社権現
霧島岑神社(霧島山中央六所権現)
霧島東神社(霧島東御在所両所権現)
霧島神宮(西御在所霧島六社権現)
東霧島神社(東霧島権現)
狭野神社(狭野大権現)
・夷守神社(夷守六所権現、霧島岑神社に合祀される)
・白鳥神社