各種伝承が残る、少名彦命の「小虫」と対をなす丹後の名神大社
[住所]京都府与謝郡与謝野町温江字虫本1821
[電話]0772-43-2193

大虫神社(おおむしじんじゃ)は、京都府与謝郡与謝野町温江にある神社。京都丹後鉄道宮豊線の与謝野駅の南約7.5キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「大虫神社(丹後国・与謝郡)」に比定される式内社(名神大社)。近代社格では府社

鎮座地は野田川の中流域で加悦谷(かやだに)と称される地の東方台地上、大江山連峰の西山裾。

加悦谷には国の史跡に指定されている蛭子山古墳や作山古墳などの古墳や遺跡が密集し、古代丹後地方における最先進地帯であったと見られている。

御祭神は大己貴命。明治16年(1883年)『与謝郡神社明細帳』では大山咋命という異説を併記する。

明治14年(1881年)に合祀した阿知江神社の御祭神・少童命(ワタツミ三神)、床浦神社の御祭神・大田命も祀る。

かつては温江字小森谷の小虫神社とともに大江山中腹の池ケ成(いけがなる)という地に鎮座し、「虫宮(むしのみや)」と呼ばれていた。

往昔大己貴命が沼河姫と当地に居住している時、槌鬼(つちおに)という悪鬼が現れ、その毒気に当てられた姫が病気に罹り、大己貴命が嘆いた。

そこに、小虫神社の御祭神である少名彦命が八色の息を吐きかけて槌鬼を追い出して姫は回復した。しかし、今度はその息のために人や動植物が虫病に苦しむようになった。

少名彦命は「小虫」と名乗ってそれぞれの体内から害源である悪虫を除くことを、大己貴命は「大虫」を名乗って体外から病を治すことを誓い合い、鏡を2面作ってそれぞれ分け持った。

また、億計王(おけのみこ。後の第24代仁賢天皇)と弘計王(をけのみこ。後の第23代顕宗天皇)が、父の斬殺とともに逃亡生活を強いられた際、一時潜伏したとも伝えられている(『古事記』該当部分)。

第31代用明天皇の第3皇子で、聖徳太子の異母弟である麻呂子親王が大江山にいた土蜘蛛という鬼賊を征伐するに際して、自ら刻んだ神像を納めて立願したという伝説もある。

国史では『文徳天皇実録』に従四位下に叙せられた記事がある。また、『丹後国神名帳』には「正一位大虫明神」と記されている。

正応元年(1288年)には14町7反236歩(およそ5万3000坪、約18ヘクタール)の神田を有し、現在も温江に「御供田」「燈明田」「油田」などの小字名が残されている。

室町時代初期に池ケ成から現在地へ遷座したというが、遷座の事情や経緯は不明。朝廷や貴族、武士に至るまで崇敬を集め、近世までは阿知江郷16ヶ村の鎮守と崇められた。

かつては後野の字地蔵堂に一の鳥居があったとい、明治までその踏石が存在したが、それも明治20年(1887年)頃に取り除かれた。

明治6年(1873年)2月に豊岡県の村社に指定され、明治10年(1877年)4月に社殿再建中の失火により社殿や上述の麻呂子親王奉納と伝える神像、境内社に至るまで全焼したため、明治14年(1881年)4月に再建。

同年8月には村社で式内論社である阿知江神社と、無格社の床浦神社(大田命)を合祀、明治41年(1908年)に神饌幣帛料供進社の指定を受け、大正7年(1918年)10月24日に府社に昇格した。

戦後は神社本庁に参加した。祭礼は小虫神社と合同で行われ、いわゆる獅子舞で、「ツルギ」「スズ」「オコリ」の三演目がある神楽と、太刀振りが奉納される。

奉納は江戸時代後半からという。現在の例祭日は4月最終日曜日で、加悦谷の諸神社とともに「加悦谷祭」を構成する。

石造五重塔が町の文化財に指定されている。その隣に、未指定ながら文明5年(1473年)の刻銘のある宝篋印塔が建つ。町の文化財としては他に、 境内にある経塚から出土した経文断片1枚がある。

境内社に若宮神社、現皇稲荷神社(倉稲魂命)がある。なお、同名の神社が、福井県越前市大虫町にもあり、やはり式内名神大社。

なお、式内社「阿知江神社」は、当社が合祀したものの他、弓木の木積神社が論社とされる。

【ご利益】
病気平癒
大虫神社(与謝野町) - 各種伝承が残る、少名彦命の「小虫」と対をなす丹後の名神大社
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