『万葉集』に歌われた垂水の滝、鎮守の森は今でも大事に守られる
[住所]大阪府吹田市垂水町1-24-6
[電話]06-6384-1526
垂水神社(たるみじんじゃ)は、大阪府吹田市垂水町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 豊島郡「垂水神社」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)。近代社格では郷社。
第10代崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命を主祭神とし、大己貴命と少彦名命を配祀する。
「垂水」とは滝の古語。神社の北には垂水ヶ岡(千里山)の泉から湧き出る水が滝となっており、元々はこの滝を御神体として水の神を祀っていたともされる。
『万葉集』に収録されている志貴皇子の歌は、この滝を詠んだものとされている。
『新撰姓氏録』によれば、孝徳天皇(在位:645年-654年)の時代に大旱魃があったが、垂水ヶ岡の清水だけは涸れなかったので、豊城入彦命の末裔の阿利真公が高樋を作ってその水を難波京に送水した。
その功により「垂水公」の姓を贈られ、当社を創建したという。
国史の初見は、『続日本後紀』の承和8年(841年)9月に従五位下の神階を受けたという記述。祈雨の神として、京都の貴船神社・松尾大社・大阪の住吉大社などとともにしばしば朝廷からの奉幣にあずかった。
神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「垂水社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。八十嶋神祭(八十島祭)にも預かった。
桓武天皇の皇女、布勢内親王の領地として寄進された当地は、やがて垂水庄、垂水牧として、東寺や春日大社、あるいは摂関家の有力な荘園となっていく。
15世紀初頭の文書には当社の「燈油」や神楽のための神領田の存在が記録されている。
天和3年(1683年)、氏子・崇敬者の熱意で本殿の造営が、大坂の宮大工によって行われた。当時の氏子と宮大工が取り交わした証文が伝わっている。
一の鳥居の創建もこの頃(元禄5年(1692年)以前)と考えられている。
社務所西側の手水舎は、明治時代までは拝殿前にあったもので、元禄年間(1688年-1734年)に奉納されたもの。また、参道北端の燈籠は明和元年(1764年)に建立されたもの。
拝殿前の一対の狛犬は享和2年(1802年)に垂水村から大坂の薬種商吉野家に養子となった吉野五運が実家の一族とともに奉納した。
19世紀初頭、京都の門跡寺院、宝境寺宮から「垂水大明神」の掛け軸が寄進され、これを元に扁額が二面作成された。
『摂津名所図会』(1796年-1798年)には、垂水の滝について「清冷甘味、諸病を治す」と紹介されている。
明治になり、郷社に列格。廃仏毀釈によって西側に隣接していた栽松寺が廃寺となり、かわって不動明王を祀る不動社が建立された。今も護摩焚き神事が行われている。
昭和49年(1974年)、古くなった社殿の建て替えが進み、本殿、拝殿の造営がなり、正遷宮の祭典が行われた。その後も、境内整備は続き、末社の造営や擁壁工事などが行わた。
平成23年(2011年)に境内東側の森を民間から買い取った不動産業者が、本殿を見下ろすマンション建設を計画。美しい広大な森を子孫に残したいという氏子・崇敬者が「垂水の森を守る会」を結成、反対運動を進めた。
1万3000余人の署名と奉賛金を集めて、3年にわたる運動の結果、当社が業者から当該森を買い取るという形で解決。この結果が未来に語り継がれるよう石碑に刻んで建立された。
5月21日が春季大祭、10月21日が秋季大祭。いずれの前日20日には御旅所祭・宵宮祭が斎行され、春季には太鼓・子ども神輿の巡行がある。
当社の本殿の後方やや西側の境内地には弥生時代の住居跡がある。竪穴式住居跡や掘立柱建物跡、焼土坑、甕棺墓などが確認され、典型的な高地性集落。
【ご利益】
病気平癒、安産、厄除け

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[電話]06-6384-1526
垂水神社(たるみじんじゃ)は、大阪府吹田市垂水町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 豊島郡「垂水神社」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)。近代社格では郷社。
第10代崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命を主祭神とし、大己貴命と少彦名命を配祀する。
「垂水」とは滝の古語。神社の北には垂水ヶ岡(千里山)の泉から湧き出る水が滝となっており、元々はこの滝を御神体として水の神を祀っていたともされる。
『万葉集』に収録されている志貴皇子の歌は、この滝を詠んだものとされている。
いははしる 垂水の上のさわらびの もえいずる春になりにけるかも社伝によれば、豊城入彦命は弟の第11代垂仁天皇に皇位を譲って東国の開拓を行ったが、その最初の開拓をしたのが垂水の地であり、豊城入彦命の子孫が祖神として豊城入彦命を祀ってきたと伝える。
『新撰姓氏録』によれば、孝徳天皇(在位:645年-654年)の時代に大旱魃があったが、垂水ヶ岡の清水だけは涸れなかったので、豊城入彦命の末裔の阿利真公が高樋を作ってその水を難波京に送水した。
その功により「垂水公」の姓を贈られ、当社を創建したという。
国史の初見は、『続日本後紀』の承和8年(841年)9月に従五位下の神階を受けたという記述。祈雨の神として、京都の貴船神社・松尾大社・大阪の住吉大社などとともにしばしば朝廷からの奉幣にあずかった。
神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「垂水社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。八十嶋神祭(八十島祭)にも預かった。
桓武天皇の皇女、布勢内親王の領地として寄進された当地は、やがて垂水庄、垂水牧として、東寺や春日大社、あるいは摂関家の有力な荘園となっていく。
15世紀初頭の文書には当社の「燈油」や神楽のための神領田の存在が記録されている。
天和3年(1683年)、氏子・崇敬者の熱意で本殿の造営が、大坂の宮大工によって行われた。当時の氏子と宮大工が取り交わした証文が伝わっている。
一の鳥居の創建もこの頃(元禄5年(1692年)以前)と考えられている。
社務所西側の手水舎は、明治時代までは拝殿前にあったもので、元禄年間(1688年-1734年)に奉納されたもの。また、参道北端の燈籠は明和元年(1764年)に建立されたもの。
拝殿前の一対の狛犬は享和2年(1802年)に垂水村から大坂の薬種商吉野家に養子となった吉野五運が実家の一族とともに奉納した。
19世紀初頭、京都の門跡寺院、宝境寺宮から「垂水大明神」の掛け軸が寄進され、これを元に扁額が二面作成された。
『摂津名所図会』(1796年-1798年)には、垂水の滝について「清冷甘味、諸病を治す」と紹介されている。
明治になり、郷社に列格。廃仏毀釈によって西側に隣接していた栽松寺が廃寺となり、かわって不動明王を祀る不動社が建立された。今も護摩焚き神事が行われている。
昭和49年(1974年)、古くなった社殿の建て替えが進み、本殿、拝殿の造営がなり、正遷宮の祭典が行われた。その後も、境内整備は続き、末社の造営や擁壁工事などが行わた。
平成23年(2011年)に境内東側の森を民間から買い取った不動産業者が、本殿を見下ろすマンション建設を計画。美しい広大な森を子孫に残したいという氏子・崇敬者が「垂水の森を守る会」を結成、反対運動を進めた。
1万3000余人の署名と奉賛金を集めて、3年にわたる運動の結果、当社が業者から当該森を買い取るという形で解決。この結果が未来に語り継がれるよう石碑に刻んで建立された。
5月21日が春季大祭、10月21日が秋季大祭。いずれの前日20日には御旅所祭・宵宮祭が斎行され、春季には太鼓・子ども神輿の巡行がある。
当社の本殿の後方やや西側の境内地には弥生時代の住居跡がある。竪穴式住居跡や掘立柱建物跡、焼土坑、甕棺墓などが確認され、典型的な高地性集落。
【ご利益】
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