一帯に分布する渡来系氏族の秦氏の氏神である敬満神を祀る名神大社の古社
[住所]静岡県島田市阪本4054-1
[電話]-

敬満神社(けいまんじんじゃ/きょうまんじんじゃ)は、静岡県島田市阪本にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「敬満神社(遠江国・蓁原郡)」に比定される式内社(名神大社)。近代社格では郷社。

主祭神は敬満神(きょうまんしん/けいまんしん)。相殿に、少彦名命(すくなひこなのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、速須佐之男尊(すさのおのみこと)を祀る。

明治7年(1874年)合祀の諏訪神社の御祭神である建御名方命事代主命、同じく愛宕神社の阿遇突知命、同じく三狐神社の御食都神、同じく天神社の高皇産霊神を合祀している。

敬満神については諸説ある。一説には秦氏遠祖の功満王のことで、秦の始皇帝三世孫の孝武王の子、かつ融通王(弓月君)の父とされ、第14代仲哀天皇8年に渡来したという。

他の説も、どちらにしろ渡来系氏族の秦氏がその氏神を祀ったものとされる。

一帯には、榛原郡川根本町千頭の敬満大井神社、焼津市西島の鏡満神社、榛原郡吉田町大幡の八幡神社に合祀された敬満神社などが知られ、いずれも当社からの分祀とされる。

社伝では、第11代垂仁天皇26年の創建と伝える。鎮座地の変遷は不詳だが、『神名帳考証』では古くは大井川付近にあったが水害により現在地に移転したとする。

棟札からは、少なくとも慶長2年(1597年)には現在地に鎮座するものとされる。一方、境内の北約90メートルの地から平安時代と見られる経塚が発見されたことから、古代の鎮座地も現在地付近に推測する説がある。

周辺には、市指定史跡である愛宕塚古墳などからなる、かつては100基以上あったとされる谷口原古墳群が分布する。

古墳時代後期のものとされ、それ以前の遺跡や古墳が皆無の地域のため、6世紀中頃になって突然古墳が築造されていることになり、渡来系氏族の進出が推測されている。

六国史では、仁寿3年(853年)に「敬満神霊」が名神に預かったという記事のほか、貞観2年(860年)に「敬満神」の神階が従四位下から正四位下に昇叙されたとの記事がある。

遠江国における神階は、従四位上の小國神社(周智郡森町、遠江国一宮)などを上回る最高位になる。遠江国では式内名神大社は当社と、角避比古神社のみ。

天正年間(1573年-1593年)には、掛川藩主山内一豊から社領寄進があったという。

また江戸時代には、幕府の命で伊奈忠次から社領寄進があった他、元禄年間(1688年-1704年)に除地として6石3斗が寄進された。この頃は「敬満大菩薩(鏡満大菩薩)」とも称された。

明治維新後、明治6年(1873年)に郷社に列した。明治44年(1911年)には神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和21年(1946年)1月には県社の資格がある旨の認定があったが、翌2月に社格制度は廃止された。

本殿は天保3年(1832年)の造営になる一間社流造。境内社として水神社(市杵島比売命)がある。

境外社に、式内社の大楠神社がある。当社の東約350メートルの地に鎮座する。両社の御祭神に関して、茨城県の大洗磯前神社酒列磯前神社に擬した、大楠神社を大己貴神、当社を少彦名神に比定する説がある。

例祭は10月15日。

【ご利益】
地域安寧、家内円満、子孫繁栄、厄祓い、病気平癒・医薬
敬満神社 - 一帯に分布する渡来系氏族の秦氏の氏神である敬満神を祀る名神大社の古社
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