歴代の武人が再興を夢見た、陸奥の名社として名高い安積郡の総社
[住所]福島県郡山市三穂田町八幡字上ノ台76
[電話]024-954-2151
宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)は、福島県郡山市三穂田町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「宇奈己呂和氣神社(陸奥国・安積郡)」に比定される式内社(名神大社)。近代社格では郷社。
主祭神は祓戸大神の一柱である瀬織津比売命。八幡神として誉田別命(応神天皇)を配祀する。当社社伝によれば、第29代欽明天皇11年、安積郡の高旗山山頂に瀬織津比売命が顕現したので祭祀したのが始まり。
社伝では、瀬織津比売命は伊耶那岐命が阿波岐原で禊ぎ祓いした際、黄泉で受けた穢れより産まれた八十禍津日命と同神としている。
また、瀬織津比売命は、伊勢の神宮(伊勢神宮)の荒祭宮や廣田神社で祀られている「天照大御神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津比売命)」であり、世の中の罪穢・禍事を清める神としている。
社号の宇奈己呂和気神については、本宮市の安達太良神社に奉斎されているが、関連性は不明。
光仁天皇の時代、陸奥国には蝦夷がはびこり騒がしかったため、朝廷は天応元年(781年)1月に陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を下向させたものの効果がなかった。
翌年の延暦元年(782年)6月、新たに即位した桓武天皇は、大伴家持を陸奥出羽按察使・鎮守府将軍に任命して下向させた。
しかし、蝦夷の勢力はたくましく盛んであったため、家持は高旗山の山頂に登り潔斎し、神々を祀り祈念すると、神霊が顕現して、安積の山々・八ツ旗山に奇瑞を現したという。
奇瑞により神験を得た家持は雄々しく蝦夷平定の軍を進め、朝廷に背いたり従ったりを繰り返す蝦夷の賊徒たちを従わせることで陸奥や出羽の騒乱を鎮め、遂に民心の安穏を得ることができた。
家持は平定を成し遂げることができたことに対する神恩に感謝し、高旗山の山頂に荘厳な社殿を建立して鎮守の神として奉斎した。
時を経て荒廃したので、延暦3年(784年)に現在の鎮座地である山崎へと遷座し社殿を造営、相殿神として八幡大神(誉田別命)を合祭した。山頂には現在も当社の奥宮として石祠が祀られている。
『続日本後紀』によれば、承和14年(847年)に従五位下の神階を授けられ、『類聚国史』には貞観11年(869年)に正五位下の神階へと昇叙されたという記述がある。
安積郡の式内社三座の大社として領主・民衆から永きに渡って篤く尊崇された。また、安積三十三郷の総社(惣社)とされた。
鎌倉時代に入り、安積郡の地頭として工藤祐経が配置され、庶子である工藤祐長を安積へ派遣した。祐経は信仰していた伊豆国の三嶋大社・伊豆神社・箱根神社を勧請した。今も境内社として残るという。
その後、応永6年(1399年)に足利満兼が陸奥・出羽支配のために足利満直らを下し、満直は、由緒ある当社の再興を志し、応永9年(1402年)には社殿と境内を整備し、家来の大原康信を神官として任命して社務を執り行わせた。現在も大原家が宮司社家として奉斎している。
高旗山から現在地に遷座した時に八幡大神を相殿神として合祀して以来、当社は「八幡神社」、江戸時代には「相殿八幡神社」と呼ばれた。武神である八幡神を祀るため、近隣の武将からも篤く崇敬を集めていた。
領主であった伊東高行・蘆名盛高・蘆名盛氏・蒲生氏郷の社領二百石の寄進状や、上杉景勝の意が示された慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前の祈願文、『相殿八幡文書』と呼ばれる古記録など貴重な文書が残されている。明治15年(1882年)に郷社に列した。
拝殿内部には、大絵馬「素戔嗚尊の八岐大蛇退治」「加藤清正の虎退治」や、安積疏水完成式典の際に伊藤博文が当社に参拝し幣帛料として3円を奉納した時の記録板、「八幡神社扁額」「安積惣社扁額」などが掲げられている。
鳥居をくぐると小川が流れており、参道西側には慰霊碑や水天宮(祭神:天之御中主神)の石祠があり、右側には社務所がある。社殿前の西側には養蚕神社(蠶養国神社、御祭神:保食神・稚産霊神)と忠魂社の石祠がある。
春季大祭が4月2日から4日にかけて、秋季大祭が9月18日から20日に行われる。往古は流鏑馬・神輿渡御が行われていたが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱や長禄3年(1459年)頃の大飢饉の際にほとんどが廃絶してしまったという。
二本松藩主の丹波氏の庇護を受けていた頃に、安積三十三郷の総社として神輿渡御の復興が試みられたが、現在は廃絶している。太々神楽が伝わっている。
【ご利益】
世の中の罪穢・禍事を清める神、厄祓い、武運長久
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宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)は、福島県郡山市三穂田町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「宇奈己呂和氣神社(陸奥国・安積郡)」に比定される式内社(名神大社)。近代社格では郷社。
主祭神は祓戸大神の一柱である瀬織津比売命。八幡神として誉田別命(応神天皇)を配祀する。当社社伝によれば、第29代欽明天皇11年、安積郡の高旗山山頂に瀬織津比売命が顕現したので祭祀したのが始まり。
社伝では、瀬織津比売命は伊耶那岐命が阿波岐原で禊ぎ祓いした際、黄泉で受けた穢れより産まれた八十禍津日命と同神としている。
また、瀬織津比売命は、伊勢の神宮(伊勢神宮)の荒祭宮や廣田神社で祀られている「天照大御神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津比売命)」であり、世の中の罪穢・禍事を清める神としている。
社号の宇奈己呂和気神については、本宮市の安達太良神社に奉斎されているが、関連性は不明。
光仁天皇の時代、陸奥国には蝦夷がはびこり騒がしかったため、朝廷は天応元年(781年)1月に陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を下向させたものの効果がなかった。
翌年の延暦元年(782年)6月、新たに即位した桓武天皇は、大伴家持を陸奥出羽按察使・鎮守府将軍に任命して下向させた。
しかし、蝦夷の勢力はたくましく盛んであったため、家持は高旗山の山頂に登り潔斎し、神々を祀り祈念すると、神霊が顕現して、安積の山々・八ツ旗山に奇瑞を現したという。
奇瑞により神験を得た家持は雄々しく蝦夷平定の軍を進め、朝廷に背いたり従ったりを繰り返す蝦夷の賊徒たちを従わせることで陸奥や出羽の騒乱を鎮め、遂に民心の安穏を得ることができた。
家持は平定を成し遂げることができたことに対する神恩に感謝し、高旗山の山頂に荘厳な社殿を建立して鎮守の神として奉斎した。
時を経て荒廃したので、延暦3年(784年)に現在の鎮座地である山崎へと遷座し社殿を造営、相殿神として八幡大神(誉田別命)を合祭した。山頂には現在も当社の奥宮として石祠が祀られている。
『続日本後紀』によれば、承和14年(847年)に従五位下の神階を授けられ、『類聚国史』には貞観11年(869年)に正五位下の神階へと昇叙されたという記述がある。
安積郡の式内社三座の大社として領主・民衆から永きに渡って篤く尊崇された。また、安積三十三郷の総社(惣社)とされた。
鎌倉時代に入り、安積郡の地頭として工藤祐経が配置され、庶子である工藤祐長を安積へ派遣した。祐経は信仰していた伊豆国の三嶋大社・伊豆神社・箱根神社を勧請した。今も境内社として残るという。
その後、応永6年(1399年)に足利満兼が陸奥・出羽支配のために足利満直らを下し、満直は、由緒ある当社の再興を志し、応永9年(1402年)には社殿と境内を整備し、家来の大原康信を神官として任命して社務を執り行わせた。現在も大原家が宮司社家として奉斎している。
高旗山から現在地に遷座した時に八幡大神を相殿神として合祀して以来、当社は「八幡神社」、江戸時代には「相殿八幡神社」と呼ばれた。武神である八幡神を祀るため、近隣の武将からも篤く崇敬を集めていた。
領主であった伊東高行・蘆名盛高・蘆名盛氏・蒲生氏郷の社領二百石の寄進状や、上杉景勝の意が示された慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前の祈願文、『相殿八幡文書』と呼ばれる古記録など貴重な文書が残されている。明治15年(1882年)に郷社に列した。
拝殿内部には、大絵馬「素戔嗚尊の八岐大蛇退治」「加藤清正の虎退治」や、安積疏水完成式典の際に伊藤博文が当社に参拝し幣帛料として3円を奉納した時の記録板、「八幡神社扁額」「安積惣社扁額」などが掲げられている。
鳥居をくぐると小川が流れており、参道西側には慰霊碑や水天宮(祭神:天之御中主神)の石祠があり、右側には社務所がある。社殿前の西側には養蚕神社(蠶養国神社、御祭神:保食神・稚産霊神)と忠魂社の石祠がある。
春季大祭が4月2日から4日にかけて、秋季大祭が9月18日から20日に行われる。往古は流鏑馬・神輿渡御が行われていたが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱や長禄3年(1459年)頃の大飢饉の際にほとんどが廃絶してしまったという。
二本松藩主の丹波氏の庇護を受けていた頃に、安積三十三郷の総社として神輿渡御の復興が試みられたが、現在は廃絶している。太々神楽が伝わっている。
【ご利益】
世の中の罪穢・禍事を清める神、厄祓い、武運長久
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