「うさぎ」で有名な卯年生まれの守護神、境内には朝瓜祭の日御前神社も鎮座
[住所]滋賀県大津市園城寺町251
[電話]:077-522-3044
三尾神社(みおじんじゃ)は、滋賀県大津市園城寺町にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、「卯年生れの守り神」などとある御朱印を頂ける。
『寺門伝記』補録第五・三尾神社神祠、及び古説によれば、その昔、伊弉諾尊(当社主祭神)がこの地に降りて長等山の地主神となった。
伊弉諾尊は常に三つの腰帯をつけており、その色は赤・白・黒、その形は三つの尾をひくのに似ていたので、三尾明神と名付けられた。
ある時、その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となり、その中で赤尾神が本神とされ、その出現は太古卯の年・卯の月・卯の日・卯の刻・卯の方角よりとされる。
そのため、ウサギが神使とされ、うさぎ・兎・卯にまつわる話が多く伝わっており、境内にも多くの置物があって、兎を象った御守なども多く、「兎の神社」として、卯年生まれの守護神となっている。
白尾神は文武天皇の大宝年間(701年-704年)に、黒尾神は称徳天皇の神護景雲3年(769年)3月14日(第二の卯の日)の出現とされている。
鎮座地は三尾が崎と呼ばれ、養老年間(717年-724年)に道明・徳道の二僧が長谷寺の観音像を造ったが、その像材が流出して大津の浜に漂着。
材木の上に三匹の小蛇が忽然と這い出して陸に登り、西野山を望んで去った、それが三尾明神である、とも伝わる。
『新抄格勅符抄』で、天平神護元年(765年)に近江国の「三尾神」に対して13戸の神戸が給された。
その後、延暦3年(784年)に従五位下、貞観5年(863年)に従四位下の神階が授けられた記事が見える。
これは一般的に、式内社でもある水尾神社を指すともされるが、当社のことであるとする説もある。
そうであれば、国史見在社となる。像材の流出譚とも絡んで、どちらにしろ、当社と水尾神社の関連性が指摘される。
また、当社の由緒には見られないが、水尾神社とともに第26代継体天皇の父母やその出生に関わる伝承が残る三重生神社の由緒にも、当社の名が見られる。
ちなみに、継体天皇の父である彦主人王の墓は安曇陵墓参考地で、近くには田中神社があり、その境内摂社に当社と同名神社がある。
貞観元年(859年)卯の年、圓城寺の開祖である智証大師円珍が琴緒谷に当社を復興後、室町時代、応永年間(1394年-1428年)に足利将軍が再復興し、これが現存する社殿群だという。
慶長年間(1596年-1615年)には、豊臣秀吉が社殿の修理を加え、若干の朱印を下附したと伝わる。
現在地に移ったのは明治9年(1876年)5月12日で、明治14年(1881年)に郷社に加列され、明治43年(1910年)に県社に昇格した。
境内社に、白髭神社(猿田彦命)、夷子神社(夷子命)、天満宮(菅原道真公)、白山神社(白山媛大神)、愛宕神社(火産霊神)、坂下稲荷神社・茂稲荷神社(底筒男命・中筒男命・倉稲魂神)などがある。
また、明治44年(1911年)には当社境内に日御前神社(ひのごぜんじんじゃ)が遷座。御祭神は天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神。7月22日・23日の同社例祭で特殊神事「朝瓜祭」が行われる。
日御前神社は、天武天皇の長子、大津皇子の第三の姫宮瓜生姫による創建と伝わる。神霊石があり、子供の病気(夜泣き・かんむし)、安産、縁結びに霊験がある。
神霊石が朝瓜形をしているところから、参拝者は朝瓜に子供の名前を書いてお供えする風習があり、上述の例祭の名が定着したという。
【ご利益】
卯年生まれの守護神、縁結び、子供の病気平癒
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三尾神社(みおじんじゃ)は、滋賀県大津市園城寺町にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、「卯年生れの守り神」などとある御朱印を頂ける。
『寺門伝記』補録第五・三尾神社神祠、及び古説によれば、その昔、伊弉諾尊(当社主祭神)がこの地に降りて長等山の地主神となった。
伊弉諾尊は常に三つの腰帯をつけており、その色は赤・白・黒、その形は三つの尾をひくのに似ていたので、三尾明神と名付けられた。
ある時、その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となり、その中で赤尾神が本神とされ、その出現は太古卯の年・卯の月・卯の日・卯の刻・卯の方角よりとされる。
そのため、ウサギが神使とされ、うさぎ・兎・卯にまつわる話が多く伝わっており、境内にも多くの置物があって、兎を象った御守なども多く、「兎の神社」として、卯年生まれの守護神となっている。
白尾神は文武天皇の大宝年間(701年-704年)に、黒尾神は称徳天皇の神護景雲3年(769年)3月14日(第二の卯の日)の出現とされている。
鎮座地は三尾が崎と呼ばれ、養老年間(717年-724年)に道明・徳道の二僧が長谷寺の観音像を造ったが、その像材が流出して大津の浜に漂着。
材木の上に三匹の小蛇が忽然と這い出して陸に登り、西野山を望んで去った、それが三尾明神である、とも伝わる。
『新抄格勅符抄』で、天平神護元年(765年)に近江国の「三尾神」に対して13戸の神戸が給された。
その後、延暦3年(784年)に従五位下、貞観5年(863年)に従四位下の神階が授けられた記事が見える。
これは一般的に、式内社でもある水尾神社を指すともされるが、当社のことであるとする説もある。
そうであれば、国史見在社となる。像材の流出譚とも絡んで、どちらにしろ、当社と水尾神社の関連性が指摘される。
また、当社の由緒には見られないが、水尾神社とともに第26代継体天皇の父母やその出生に関わる伝承が残る三重生神社の由緒にも、当社の名が見られる。
ちなみに、継体天皇の父である彦主人王の墓は安曇陵墓参考地で、近くには田中神社があり、その境内摂社に当社と同名神社がある。
貞観元年(859年)卯の年、圓城寺の開祖である智証大師円珍が琴緒谷に当社を復興後、室町時代、応永年間(1394年-1428年)に足利将軍が再復興し、これが現存する社殿群だという。
慶長年間(1596年-1615年)には、豊臣秀吉が社殿の修理を加え、若干の朱印を下附したと伝わる。
現在地に移ったのは明治9年(1876年)5月12日で、明治14年(1881年)に郷社に加列され、明治43年(1910年)に県社に昇格した。
境内社に、白髭神社(猿田彦命)、夷子神社(夷子命)、天満宮(菅原道真公)、白山神社(白山媛大神)、愛宕神社(火産霊神)、坂下稲荷神社・茂稲荷神社(底筒男命・中筒男命・倉稲魂神)などがある。
また、明治44年(1911年)には当社境内に日御前神社(ひのごぜんじんじゃ)が遷座。御祭神は天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神。7月22日・23日の同社例祭で特殊神事「朝瓜祭」が行われる。
日御前神社は、天武天皇の長子、大津皇子の第三の姫宮瓜生姫による創建と伝わる。神霊石があり、子供の病気(夜泣き・かんむし)、安産、縁結びに霊験がある。
神霊石が朝瓜形をしているところから、参拝者は朝瓜に子供の名前を書いてお供えする風習があり、上述の例祭の名が定着したという。
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