三尾君の祖神と継体天皇の母を祀る、出産譚と墓地が伝わる古社
[住所]滋賀県高島市拝戸716
[電話]0740-37-1316
水尾神社(みおじんじゃ/みをじんじゃ)は、滋賀県高島市拝戸にある神社。
『延喜式神名帳』にある「水尾神社二座(近江国・高島郡)」に比定される式内社(名神大社。月次・新嘗)。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は、第11代垂仁天皇皇子で、『古事記』にも三尾の君の祖とある磐衝別命(いわつくわけのみこと)と、第26代継体天皇の母の振姫(振媛、ふりひめ)を指すとされる比咩神(ひめがみ)。
もともとは河南社(南本殿:現在社)に磐衝別命を祀り、比咩神は水尾川を隔てた河北社(北本殿。高島市上拝戸)の御祭神だったが、河北社が昭和46年(1971年)の台風で倒壊したため遷座した。
社伝では、磐衝別命は猿田彦命の天成神道を学ぶために猿田彦命を祀る当地に来住したという。
朝夕に猿田彦命を祀る三尾大明神(高島市永田の長田神社)を遙拝したのでこの地は「拝所」と称され、後に現地名の拝戸(はいど)となるが、その住居跡は「拝所御所」と称されたと伝える。
磐衝別命は当地で亡くなったため、その子・磐城別王は磐衝別命を三尾山に埋葬し、磐衝別命を祀る社として「河南社(現在社)」を創建したという。
続いて社伝によると、第15代応神天皇の第11皇子速総別王も天成神道を学ぶため当地に来住したという。速総別王は、『古事記』において別のお話の重要なキャストとして登場する。
速総別王の四世孫である彦主人王は、磐城別王5世孫の振姫を妃に迎えた。振姫は当社の拝殿を産所として、天迹部王(あまあとべ)・男迹部王(おとあとべ)・太迹部王(おおあとべ)の三子を出産した。
その出産時、彦主人王は仮社を建てて安産を祈ったといい、後に天迹部王がその仮社跡に両親を祀る三重生大明神を創建したのが「河北社」の始まり。
その後、河北社では比咩神(振姫)のみを祀るようになったと伝える。現在の安曇川町常磐木にある式内社三重生神社との関連がうかがえる。
また、高島市安曇川町田中に彦主人王墓の伝承地として田中王塚古墳(安曇陵墓参考地)が残り、近くには田中神社が鎮座する。また、太迹部王が第26代継体天皇となる。
当社の文献の初見は『新抄格勅符抄』で、天平神護元年(765年)に近江国の「三尾神」に対して13戸の神戸が給されている。
その後、いずれも「三尾神」に対して延暦3年(784年)に従五位下、貞観5年(863年)に従四位下の神階が授けられた記事が見える。
滋賀県大津市の園城寺近くに地主神の三尾神社がある。当社との関連が指摘されるとともに、史料に見える「近江国三尾神」が三尾神社を指す可能性も指摘される。
弘安3年(1280年)に禅智院が開かれると同院は当社の別当寺となった。その後は振るわず社勢は衰微したという。
明治維新後、明治15年(1882年)に郷社に列し、大正4年(1915年)に県社に列格した。平成8年(1996年)に和風庭園の「水尾庭園」が完成した。
境内裏手の山中には6世紀の群集墳である拝戸古墳群が残っており、うち皇子塚は三尾君祖の墳墓であると伝える。
摂末社に、神明神社(天照皇大神・豊受大神)、八幡神社(応神天皇・速総別命)、秋葉神社(火結命。天正15年(1587年)に秋葉神社から勧請)がある。明治44年(1911年)に一殿に併祀された。
高島市音羽には大炊神社があり、当社の大炊殿の跡であるという。高島市安曇川町青柳の太田神社は旧称を新宮神社といい、当社の御旅所であったと伝わる。
例祭は5月3日。1月15日には左義長祭がある。6月初旬には泥落祭、6月26日には百燈祭が斎行される。
【ご利益】
所願成就、縁結び、子宝、安産
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『延喜式神名帳』にある「水尾神社二座(近江国・高島郡)」に比定される式内社(名神大社。月次・新嘗)。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は、第11代垂仁天皇皇子で、『古事記』にも三尾の君の祖とある磐衝別命(いわつくわけのみこと)と、第26代継体天皇の母の振姫(振媛、ふりひめ)を指すとされる比咩神(ひめがみ)。
もともとは河南社(南本殿:現在社)に磐衝別命を祀り、比咩神は水尾川を隔てた河北社(北本殿。高島市上拝戸)の御祭神だったが、河北社が昭和46年(1971年)の台風で倒壊したため遷座した。
社伝では、磐衝別命は猿田彦命の天成神道を学ぶために猿田彦命を祀る当地に来住したという。
朝夕に猿田彦命を祀る三尾大明神(高島市永田の長田神社)を遙拝したのでこの地は「拝所」と称され、後に現地名の拝戸(はいど)となるが、その住居跡は「拝所御所」と称されたと伝える。
磐衝別命は当地で亡くなったため、その子・磐城別王は磐衝別命を三尾山に埋葬し、磐衝別命を祀る社として「河南社(現在社)」を創建したという。
続いて社伝によると、第15代応神天皇の第11皇子速総別王も天成神道を学ぶため当地に来住したという。速総別王は、『古事記』において別のお話の重要なキャストとして登場する。
速総別王の四世孫である彦主人王は、磐城別王5世孫の振姫を妃に迎えた。振姫は当社の拝殿を産所として、天迹部王(あまあとべ)・男迹部王(おとあとべ)・太迹部王(おおあとべ)の三子を出産した。
その出産時、彦主人王は仮社を建てて安産を祈ったといい、後に天迹部王がその仮社跡に両親を祀る三重生大明神を創建したのが「河北社」の始まり。
その後、河北社では比咩神(振姫)のみを祀るようになったと伝える。現在の安曇川町常磐木にある式内社三重生神社との関連がうかがえる。
また、高島市安曇川町田中に彦主人王墓の伝承地として田中王塚古墳(安曇陵墓参考地)が残り、近くには田中神社が鎮座する。また、太迹部王が第26代継体天皇となる。
当社の文献の初見は『新抄格勅符抄』で、天平神護元年(765年)に近江国の「三尾神」に対して13戸の神戸が給されている。
その後、いずれも「三尾神」に対して延暦3年(784年)に従五位下、貞観5年(863年)に従四位下の神階が授けられた記事が見える。
滋賀県大津市の園城寺近くに地主神の三尾神社がある。当社との関連が指摘されるとともに、史料に見える「近江国三尾神」が三尾神社を指す可能性も指摘される。
弘安3年(1280年)に禅智院が開かれると同院は当社の別当寺となった。その後は振るわず社勢は衰微したという。
明治維新後、明治15年(1882年)に郷社に列し、大正4年(1915年)に県社に列格した。平成8年(1996年)に和風庭園の「水尾庭園」が完成した。
境内裏手の山中には6世紀の群集墳である拝戸古墳群が残っており、うち皇子塚は三尾君祖の墳墓であると伝える。
摂末社に、神明神社(天照皇大神・豊受大神)、八幡神社(応神天皇・速総別命)、秋葉神社(火結命。天正15年(1587年)に秋葉神社から勧請)がある。明治44年(1911年)に一殿に併祀された。
高島市音羽には大炊神社があり、当社の大炊殿の跡であるという。高島市安曇川町青柳の太田神社は旧称を新宮神社といい、当社の御旅所であったと伝わる。
例祭は5月3日。1月15日には左義長祭がある。6月初旬には泥落祭、6月26日には百燈祭が斎行される。
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