京祇園社の元宮? 備後国一宮が挨拶に来る神事伝わる
[住所]広島県福山市新市町大字戸手1-1
[電話]0847-51-2958

素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市新市町戸手にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳山陽道神 備後国 深津郡「須佐能袁能神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。現在は「全国一の宮会」に加盟して、備後国一宮を称する。

主祭神は素盞嗚尊(すさのをのみこと)。主祭神の妃である稲田姫命(くしなだひめ)、主祭神のの御子神である八王子(やはしらのみこ)を配祀する。素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」に加盟している。

社伝によれば、天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)に創建したとされる。その後、遣唐使の吉備真備が唐から帰国した後の天平6年 (734年)に播磨の廣峯神社に勧請したとされる。

廣峯神社は、現在では日本の祇園信仰の総本社と考えられる八坂神社の元宮の可能性があり、当社はさらにそのその元宮を主張していることになる。

蘇民将来や茅の輪くぐり発祥地ともしており、祇園信仰の根源、ということになる。

『釈日本紀』巻7(卜部兼方、鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文の「蘇民将来」説話に「疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)」とあるのが当社とされる。

あるいは現在は摂社である蘇民神社・疱瘡神社が疫隈國社であるとする説もある。

寛平9年(897年)に再興とあるので、吉備真備以降150年の間で荒廃した可能性がある。また、再興後に『延喜式神名帳』に記載されたことになる。

後に牛頭天王が御祭神になり、早苗山天竜院天王寺という真言系の別当寺が作られ、本堂である本地堂(現 戸手天満宮)には本尊本地仏として聖観世音菩薩が祀られた。

一般に牛頭天王の本地仏は薬師如来であるが、当社の観音祭祀の理由は不明。

また脇侍に不動明王と毘沙門天が祀られた。江熊祇園牛頭天王社が正式な社名であるが、天王社、祇園社などとも呼ばれるようになった。

明治の神仏分離により、神社の道を選んだ当社の別当僧は還俗して神官となり、御祭神は本来の素盞嗚尊に改め、現在の社名に改称した。

本殿は入母屋造檜皮葺で、備後福山藩の初代藩主水野勝成(1564年9月30日-1651年)の再建と伝わる。境内東端、石造りの大鳥居は元禄年間(1688年-1704年)の建立。

日光東照宮などで有名な鳴き龍がある。日本にわずか20棟ほどと言われている。かつて境内の鬼門(北東の隅)に「神代之杉」と呼ばれた御神木があった。現在は石碑のみ。

戦国時代に当社の南西にそびえる城山(じょうやま、標高199メートル)一帯に築かれていた山城相方城から、城門2棟と櫓が移築されたとされる。

櫓は昭和期に火災で焼失したが、戦国期の山城のものとしては最古級とされる城門は現存する。

境内社に、先に触れたように蘇民神社・疱瘡神社と戸手天満宮がある。蘇民神社・疱瘡神社は武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟将来(巨旦将来)の屋敷跡、とも伝わる。

江戸中期の再建とされ、もとの本地堂である戸手天満宮は、平成10年(1998年)に大規模な修復がなされた。

例祭は7月15日で、祇園祭、あるいは祇園例大祭とも。現地では「祇園さん」と呼ぶ。福山市の新市地区・戸手地区と相方地区、府中市の中須地区の4地区の氏子により斎行される。

備後国一宮は一般的には福山市新市町宮内に鎮座する吉備津神社とされるが、祇園祭において、吉備津神社より宮司と禰宜が当社に参拝、「無言の神事」と呼ばれる儀式が行われる。

これについて当社では、備中国の吉備津神社の御分霊を当社が鎮座する備後国に勧請、社殿を造営したことに対する返礼・挨拶よって生じた慣習の可能性があると指摘している(参考)。

なお、当社本殿から大鳥居を抜けて延長線上の数キロ先の福山市駅家町万能倉に同名神社が鎮座している。

式内社「須佐能袁能神社」の他の論社に、市内神辺町の当社と同名の神社、蔵王町の天神社、東深津町の王子神社がある。

【ご利益】
嵐、疫病除け、厄除け、病気平癒(公式HP
素盞嗚神社(福山市新市町戸手) - 京祇園社の元宮? 備後国一宮が挨拶に来る神事伝わる
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素盞嗚神社(福山市新市町戸手)の御朱印