夫は安房神社の御祭神の海上交通の女神、海底に神社も、洲崎踊りで知られる
[住所]千葉県館山市洲崎1697
[電話]0470-29-0713
洲崎神社(すさきじんじゃ/すのさきじんじゃ)は、千葉県館山市洲崎にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 安房国 安房郡「后神天比理乃咩命神社」に比定される式内社(大社)の論社。
江戸時代には安房国一宮とされ、現在でも「全国一の宮会」に加盟し、安房国一宮。近代社格では県社。
御祭神は天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)。安房神社御祭神天太玉命の后神で、元の名を「洲ノ神(すさきのかみ)」と称する。天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)などとも。
社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、初代神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を御神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりであるという。
養老元年(717年)、大地変のため境内の鐘ヶ池が埋まり、地底の鐘を守っていた大蛇が災いしたので、役小角が七日七夜の祈祷を行い、明神のご神託により大蛇を退治して災厄を除いたという。
また、役小角が海上安全のため浜鳥居前の海岸と横須賀に御神石を一つずつ置いた。
『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』にそれぞれ神階の陞叙を受けている記事がある。式内社「后神天比理乃咩命神社」の論社は他に、洲宮神社がある。
当社と洲宮神社は「洲の神」を祀る一之宮と二之宮、あるいは当社が拝所、洲宮神社が奥宮であり、どちらにしろ一体、との見方もある。
『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180年)、石橋山の合戦に敗れ安房に逃れた源頼朝は、上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り、当社へ参拝して交渉の成功を祈願、成功したため、神田を寄進した。
また、寿永元年(1182年)8月11日、頼朝の妻政子の安産祈願のため、安房国の豪族である安西三郎景益が奉幣使として当社へ派遣された。以降も関東武家の崇敬を受けた。別当は養老寺。
文化9年(1812年)、房総沿岸を視察した筆頭老中松平定信が「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納した。江戸時代に一宮とされた根拠はこの扁額による。ただし、安房国一宮は安房神社であるというのが定説。
明治5年(1872年)、教部省は洲宮神社を式内社と定めたが、翌6年(1873年)にこの決定を覆して当社を式内社とした。同年、県社に列格した。
昭和15年-16年(1940年-1941年)頃まで海上交通の関所としての機能があって、沖を通る船に奉賽を納めさせる風習があったという。
昭和47年(1972年)には御手洗山が「洲崎神社自然林」として千葉県指定天然記念物に指定された。現在は兼務社となり、神職は常駐していない。
例祭は8月20日・21日で、神輿渡御があり、県の無形民俗文化財に指定されている洲崎踊りが奉納される。2月初午にも洲崎踊りが奉納される。
当社近く、波左間海中公園内の海底に、水難事故・水難事件防止を祈願するために御分霊を勧請して海底神社を創建している。
【ご利益】
水難除け、海上交通安全
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[電話]0470-29-0713
洲崎神社(すさきじんじゃ/すのさきじんじゃ)は、千葉県館山市洲崎にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 安房国 安房郡「后神天比理乃咩命神社」に比定される式内社(大社)の論社。
江戸時代には安房国一宮とされ、現在でも「全国一の宮会」に加盟し、安房国一宮。近代社格では県社。
御祭神は天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)。安房神社御祭神天太玉命の后神で、元の名を「洲ノ神(すさきのかみ)」と称する。天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)などとも。
社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、初代神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を御神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりであるという。
養老元年(717年)、大地変のため境内の鐘ヶ池が埋まり、地底の鐘を守っていた大蛇が災いしたので、役小角が七日七夜の祈祷を行い、明神のご神託により大蛇を退治して災厄を除いたという。
また、役小角が海上安全のため浜鳥居前の海岸と横須賀に御神石を一つずつ置いた。
『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』にそれぞれ神階の陞叙を受けている記事がある。式内社「后神天比理乃咩命神社」の論社は他に、洲宮神社がある。
当社と洲宮神社は「洲の神」を祀る一之宮と二之宮、あるいは当社が拝所、洲宮神社が奥宮であり、どちらにしろ一体、との見方もある。
『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180年)、石橋山の合戦に敗れ安房に逃れた源頼朝は、上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り、当社へ参拝して交渉の成功を祈願、成功したため、神田を寄進した。
また、寿永元年(1182年)8月11日、頼朝の妻政子の安産祈願のため、安房国の豪族である安西三郎景益が奉幣使として当社へ派遣された。以降も関東武家の崇敬を受けた。別当は養老寺。
文化9年(1812年)、房総沿岸を視察した筆頭老中松平定信が「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納した。江戸時代に一宮とされた根拠はこの扁額による。ただし、安房国一宮は安房神社であるというのが定説。
明治5年(1872年)、教部省は洲宮神社を式内社と定めたが、翌6年(1873年)にこの決定を覆して当社を式内社とした。同年、県社に列格した。
昭和15年-16年(1940年-1941年)頃まで海上交通の関所としての機能があって、沖を通る船に奉賽を納めさせる風習があったという。
昭和47年(1972年)には御手洗山が「洲崎神社自然林」として千葉県指定天然記念物に指定された。現在は兼務社となり、神職は常駐していない。
例祭は8月20日・21日で、神輿渡御があり、県の無形民俗文化財に指定されている洲崎踊りが奉納される。2月初午にも洲崎踊りが奉納される。
当社近く、波左間海中公園内の海底に、水難事故・水難事件防止を祈願するために御分霊を勧請して海底神社を創建している。
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