鈴鹿サーキット地内で創祀、崇神期に創建されたツツジが有名な式内古社
[住所]三重県鈴鹿市稲生西2-24-2
[電話]059-386-4852
伊奈富神社(いのうじんじゃ、伊奈冨神社)は、三重県鈴鹿市稲生西にある神社。伊勢鉄道線の鈴鹿サーキット稲生駅の南西約800メートル。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「伊奈富神社(伊勢国・奄芸郡)」に比定される式内社(小社)。伊勢国総社で、近代社格では県社。
御祭神は、主祭神が大宮に祀られている保食神、大国道命。相殿神として、西宮に祀られている豊宇賀能売命、稚産霊神、三大神之宮に祀られている鳴雷光神、大山祇命。
現在は三宮とも本社で祀られている。
保食神について、伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)や稲荷大神と同神であるとしている。大国道命(おおくにのみちみこと)は不詳、当社のみで祀られている。
社伝によれば、神代、東ケ岡(現 鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現した。
第10代崇神天皇の時代、霊夢の神告により、その5年、勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地が占われ、神路ケ岡に大宮、西宮、三大神が鎮座した。
その後、第14代仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、第21代雄略天皇5年には数種の弊物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の神号が賜われた。
奈良時代の天平年間(729年-749年)、行基上人が別当寺の神宮寺を建立した。
平安時代の天長年間(824年-834年)には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、七島池を一夜にして造ったと伝えられている。
『日本三代実録』貞観7(865年)年4月、正五位上より従四位下に進階。また、中世以後、伊勢国の惣社(総社)として機能していたとも言われる。
伊勢国総社は他に、市内国府町の三宅神社が候補となっている。
当時の神領は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な領域だった。嘉承2年(1107年)12月には栗真庄の住人との紛争が記録されている。
また、永万9年(1173年)6月には神祇官御年貢進社となった。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永11年(1274年)には三社に勅額が下賜された。
以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信厚く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田220町歩、北畠国司は社領100石御供田12段を寄進した。
また江戸時代には「稲生大明神」と称し、元文年間(1736年-1741年)には、紀伊徳川家より造営料銀22貫が寄せられ、三社の大造営が行われた。
明治6年(1873年)には郷社に、明治37年(1904年)には県社に列せられた。
文化財として、扁額、男神坐像が国の重要文化財に指定されている他、神像・能面・獅子頭・三足壺・棟札・勢州稲生村三社絵図が県指定文化財。
また、獅子舞が県指定無形文化財、七島池(伊奈富神社庭園)・むらさきつつじが県指定名勝となっている。特にツツジの名所として知られている。
境内社に、豊御崎神社・稲生大籾神社・七霊山須神社・山中箕大葺神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、家内安全、学業成就、病気平癒(公式HP)
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[電話]059-386-4852
伊奈富神社(いのうじんじゃ、伊奈冨神社)は、三重県鈴鹿市稲生西にある神社。伊勢鉄道線の鈴鹿サーキット稲生駅の南西約800メートル。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「伊奈富神社(伊勢国・奄芸郡)」に比定される式内社(小社)。伊勢国総社で、近代社格では県社。
御祭神は、主祭神が大宮に祀られている保食神、大国道命。相殿神として、西宮に祀られている豊宇賀能売命、稚産霊神、三大神之宮に祀られている鳴雷光神、大山祇命。
現在は三宮とも本社で祀られている。
保食神について、伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)や稲荷大神と同神であるとしている。大国道命(おおくにのみちみこと)は不詳、当社のみで祀られている。
社伝によれば、神代、東ケ岡(現 鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現した。
第10代崇神天皇の時代、霊夢の神告により、その5年、勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地が占われ、神路ケ岡に大宮、西宮、三大神が鎮座した。
その後、第14代仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、第21代雄略天皇5年には数種の弊物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の神号が賜われた。
奈良時代の天平年間(729年-749年)、行基上人が別当寺の神宮寺を建立した。
平安時代の天長年間(824年-834年)には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、七島池を一夜にして造ったと伝えられている。
『日本三代実録』貞観7(865年)年4月、正五位上より従四位下に進階。また、中世以後、伊勢国の惣社(総社)として機能していたとも言われる。
伊勢国総社は他に、市内国府町の三宅神社が候補となっている。
当時の神領は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な領域だった。嘉承2年(1107年)12月には栗真庄の住人との紛争が記録されている。
また、永万9年(1173年)6月には神祇官御年貢進社となった。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永11年(1274年)には三社に勅額が下賜された。
以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信厚く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田220町歩、北畠国司は社領100石御供田12段を寄進した。
また江戸時代には「稲生大明神」と称し、元文年間(1736年-1741年)には、紀伊徳川家より造営料銀22貫が寄せられ、三社の大造営が行われた。
明治6年(1873年)には郷社に、明治37年(1904年)には県社に列せられた。
文化財として、扁額、男神坐像が国の重要文化財に指定されている他、神像・能面・獅子頭・三足壺・棟札・勢州稲生村三社絵図が県指定文化財。
また、獅子舞が県指定無形文化財、七島池(伊奈富神社庭園)・むらさきつつじが県指定名勝となっている。特にツツジの名所として知られている。
境内社に、豊御崎神社・稲生大籾神社・七霊山須神社・山中箕大葺神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛、家内安全、学業成就、病気平癒(公式HP)
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