聖武勅願からの由緒、オオタタネコの末裔が名を受け継ぐ古社、越前国総社
[住所]福井県越前市京町1-4-35
[電話]0778-22-1127

総社大神宮(そうじゃだいじんぐう)は、福井県越前市京町にある神社。越前国総社で、近代社格では県社。「おそんじゃさん」で親しまれる。参拝すれば、御朱印を頂ける。

奈良時代の天平11年(739年)、聖武天皇の勅願で諸国の総社に大己貴命(大国主命とも)を併せて祀ることになり、当社も奉斎することになった。

社伝によれば、同年5月5日丙申の日に神霊が遷され、この併祀の際、大和国大神神社大物主の祭主、太田田根子命の後裔忠麻呂を筑前国の糟屋郡より召し、この御鎮祭の砌、帝都より供奉したという。

糟屋郡出身であるため糟谷を氏とし、祖である太田田根子命の田田を忠に用い、現宮司まで脈々とその姓名を今に伝えている。神紋は五つ木瓜。

以後 総社は越前国一宮氣比神宮および二宮・劔神社と共に越前における代表的な社として、社領百余町、社家十家、代々領主および人々の崇敬を受けた。

鎌倉末期、正応5年(1292年)頃には、遊行上人一遍僧徒の弟子他真教が数度にわたり参詣し、白山平泉寺僧徒の攻撃を受けるなどの争乱もあった。

室町時代になると、打ち続く戦国争乱により神領を蚕食され、社殿が焼かれ、その勢力は衰退したが、天正元年(1472年)、越前の守護朝倉孝景により神領安堵の黒印状が出され、さらに天正元年(1573年)には織田信長の朱印状も出されている。

天正年間(1573年-1592年)、前田利家は本殿及び拝殿を寄進し、松平秀康は入国以来深く当社を崇敬して数多くの社領を寄進、松平忠昌、松平光通の代になり、社領の判物を納め、時に応じて社参奉幣がなされた。

本多富正が府中(現 越前市)の領主となった間もない慶長13年(1608年)、30石の社領が寄進され、以後歴代の崇敬を受け、文化元年(1804年)甲子8月、一千年大祭が斎行された。

旧福井藩にて郷社に列し、明治8年(1875年)4月22日に敦賀県にて県社に列せられ、明治41年(1908年)4月26日には神饌幣帛料供進神社に指定された。

明治44年(1911年)7月25日、天照皇大神を祀る無格社神明神社を合祀。現在の社殿は大正15年(1926年)6月に造営されたもの。

現在の御祭神は、主祭神が大己貴命。天常立命国常立命狹依比売命多岐理比売命多岐都比売命宗像三女神)、少彦名命事代主命猿田彦命市杵嶋姫命、孝謙天皇、宗像神を配祀し、国中官社126座と天照皇大神を合祀する。

例祭は9月15日、13-16日まで行われ、期間中の神輿巡行が盛り上がる。5月1日・2日は春祭で、オハイゴさん巡行と呼ばれる、御神宝「火除けの御獅子頭(おはいごう)」の巡行がある。

境内社に、旧武生町戦没者737柱の英霊を祀る武生忠魂殿、境内の北東に南向きにあって菅原道真を祀る天満宮がある。

【ご利益】
家内安全、息炎延命、商売繁盛、災難防除(公式HP
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総社大神宮の御朱印