天平年間の創建、太田道灌・佐竹義宣らが軍配を奉納した「明神さま」
[住所]茨城県石岡市総社2-8-1
[電話]0299-22-2233
常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう、常陸国総社宮)は、茨城県石岡市総社にある神社。常陸国総社で、近代社格では県社。總社神社、総社神社とも。石岡の産土神。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は、伊弉諾尊、素戔嗚尊、大国主尊、瓊々杵尊、大宮比売尊(おおみやひめのみこと)、布留大神(ふるのおおみかみ)。
大宮比売尊については、当社の説明では特段、アメノウズメとの同一性を指摘せず、「別名大宮乃売(おおみやのめ)。
天皇の殿の裏に塞り座して、殿内を出入りすることを管理し、天皇を守護する神」とだけしている。大宮売神社の御祭神と同神であろう。
社伝によれば、奈良時代の天平年間(729年-749年)の創建とされる。
当初の社名は「国府の宮」であったが、延喜年間(901年-923年)に天神地祇(てんしんちぎ)の6柱の神が祀られるようになって、「六所の宮」となり、さらに総社に改名。
また創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、天慶年間(938年-947年)に大掾氏(平詮国)が常陸府中(石岡)に築城した際に、鎮守のために現社地に遷したという。
神主は代々清原氏が世襲していた。
治承3年(1179年)5月に「造営注文案」が出され、宮域の整備がなされた。
造営には吉田神社や筑波山神社などの常陸国内諸社や郷が鎌倉時代末期まで決まっていたが、14世紀初頭になると、代々その任を担ってきた地頭らが造営を拒否し始める。
社寺保護政策を強めていた幕府に対する関東御家人の反発の潮流の一つとも、総社に対する権威の否定、国衙機能の変質・解体とも、考えられている。
それでも、少なくとも戦国時代まで常陸国内の神事を執行・主導する立場にあり、仏事に対しても関与できるほどの権力を有していた。
永享12年(1440年)5月には太田道灌が奥州へ向かうにあたって武運祈願のため参拝し、戦に勝って戻った折に軍配団扇1握と短冊2葉を寄進し、以下のような短歌を詠んだ。
江戸時代には、本殿に加え、幣殿・拝殿・神宮寺を有し、末社として高房明神と稲荷明神を管轄。
寛永4年(1627年)、常陸府中藩主の皆川隆庸が現在の社殿を再建。この年に江戸幕府によって社領を25石と定められた。
その後、松平信定が天和3年(1683年)に拝殿を修築、明治19年(1886年)6月に氏子らで拝殿神門の修築と本殿を銅の瓦葺に変更した。
明治維新後、郷社に列したが、明治33年(1900年)9月に県社に昇格した。
これを記念して石岡町民は寄付を集めて神社の基金を作り、三条実美に社殿奉額の社号の筆を依頼した。
昭和53年(1978年)、周辺域に新町名「総社」が設定された。平成17年(2005年)4月14日、本殿が市指定有形文化財(建造物)となった。
拝殿脇には日本武尊腰掛石があるほか、神門外の土俵では大祭に合わせて相撲大会が執り行われる。江戸時代の大祭は現在の祭とは異なり、相撲大会(角力)のみが神事として挙行されていた。
摂末社には、愛染神社、愛宕神社、厳島神社、稲荷神社、星の宮、松尾神社、八坂神社、十二社があり、その他に神武天皇遥拝所がある。
県の有形文化財として、常陸総社文書、扁額三十六歌仙絵、漆皮軍配(伝 太田道灌奉納)、漆皮軍配(伝 佐竹義宣奉納)がある。また県有形民俗文化財として、土橋町の獅子頭がある。
毎年9月第3月曜日を含む土・日・月に催行される例祭は「常陸國總社宮例大祭」と呼ばれ、「石岡のおまつり」とも。関東三大祭りの一つに数えられる。
【ご利益】
厄祓い、縁結び、病気平癒、武運長久(公式HP)
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常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう、常陸国総社宮)は、茨城県石岡市総社にある神社。常陸国総社で、近代社格では県社。總社神社、総社神社とも。石岡の産土神。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は、伊弉諾尊、素戔嗚尊、大国主尊、瓊々杵尊、大宮比売尊(おおみやひめのみこと)、布留大神(ふるのおおみかみ)。
大宮比売尊については、当社の説明では特段、アメノウズメとの同一性を指摘せず、「別名大宮乃売(おおみやのめ)。
天皇の殿の裏に塞り座して、殿内を出入りすることを管理し、天皇を守護する神」とだけしている。大宮売神社の御祭神と同神であろう。
社伝によれば、奈良時代の天平年間(729年-749年)の創建とされる。
当初の社名は「国府の宮」であったが、延喜年間(901年-923年)に天神地祇(てんしんちぎ)の6柱の神が祀られるようになって、「六所の宮」となり、さらに総社に改名。
また創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、天慶年間(938年-947年)に大掾氏(平詮国)が常陸府中(石岡)に築城した際に、鎮守のために現社地に遷したという。
神主は代々清原氏が世襲していた。
治承3年(1179年)5月に「造営注文案」が出され、宮域の整備がなされた。
造営には吉田神社や筑波山神社などの常陸国内諸社や郷が鎌倉時代末期まで決まっていたが、14世紀初頭になると、代々その任を担ってきた地頭らが造営を拒否し始める。
社寺保護政策を強めていた幕府に対する関東御家人の反発の潮流の一つとも、総社に対する権威の否定、国衙機能の変質・解体とも、考えられている。
それでも、少なくとも戦国時代まで常陸国内の神事を執行・主導する立場にあり、仏事に対しても関与できるほどの権力を有していた。
永享12年(1440年)5月には太田道灌が奥州へ向かうにあたって武運祈願のため参拝し、戦に勝って戻った折に軍配団扇1握と短冊2葉を寄進し、以下のような短歌を詠んだ。
曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月道灌の子孫である太田資宗は先祖・道灌の寄進した軍配に感激し、軍配を納める金の梨地の筥(はこ)を作り、その蓋に由緒を書いて寛文8年(1668年)4月に奉納した。
江戸時代には、本殿に加え、幣殿・拝殿・神宮寺を有し、末社として高房明神と稲荷明神を管轄。
寛永4年(1627年)、常陸府中藩主の皆川隆庸が現在の社殿を再建。この年に江戸幕府によって社領を25石と定められた。
その後、松平信定が天和3年(1683年)に拝殿を修築、明治19年(1886年)6月に氏子らで拝殿神門の修築と本殿を銅の瓦葺に変更した。
明治維新後、郷社に列したが、明治33年(1900年)9月に県社に昇格した。
これを記念して石岡町民は寄付を集めて神社の基金を作り、三条実美に社殿奉額の社号の筆を依頼した。
昭和53年(1978年)、周辺域に新町名「総社」が設定された。平成17年(2005年)4月14日、本殿が市指定有形文化財(建造物)となった。
拝殿脇には日本武尊腰掛石があるほか、神門外の土俵では大祭に合わせて相撲大会が執り行われる。江戸時代の大祭は現在の祭とは異なり、相撲大会(角力)のみが神事として挙行されていた。
摂末社には、愛染神社、愛宕神社、厳島神社、稲荷神社、星の宮、松尾神社、八坂神社、十二社があり、その他に神武天皇遥拝所がある。
県の有形文化財として、常陸総社文書、扁額三十六歌仙絵、漆皮軍配(伝 太田道灌奉納)、漆皮軍配(伝 佐竹義宣奉納)がある。また県有形民俗文化財として、土橋町の獅子頭がある。
毎年9月第3月曜日を含む土・日・月に催行される例祭は「常陸國總社宮例大祭」と呼ばれ、「石岡のおまつり」とも。関東三大祭りの一つに数えられる。
【ご利益】
厄祓い、縁結び、病気平癒、武運長久(公式HP)
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