日本武尊以前の創祀、天武朝の創建、上総国一国一社の八幡宮かつ総社
[住所]千葉県市原市八幡1057-1
[電話]0436-41-2072
飯香岡八幡宮(いいがおかはちまんぐう)は、千葉県市原市八幡にある神社。上総国総社で、近代社格では県社。子育て八幡宮と呼ばれることもある。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は、誉田別尊、息長帯姫尊、玉依姫尊ほか7柱。八幡としては、筥崎宮と同じタイプの八幡神を御祭神としているのが特徴。
鎮座地は元は六所御影神社と言った。第12代景行天皇40年、日本武尊が東征の時、六所御影神社で休息した。その際、社人が尊に食事を捧げたところ、飯の香りを賞した故事により、御影山を飯香岡(いいがおか)と呼ぶことになったという。
天武天皇の時代、白鳳4年(675年)、勅使桜町季満・奉幣使菅原時春が下向し、神殿を飯香岡に創建して誉田別尊以下三神を奉斎する。その際、勅使桜町季満卿が詠んだ和歌として、下記が伝わっている。
しかし、当社が中世以降、総社機能を有していたことは間違いないという。その後も数度の社殿造営を経て、寛弘5年(1008年)には源頼光により社殿が造営される。
鎮守府将軍源頼義は康平7年(1064年)、造営料として米1000石寄進、治暦元年(1065年)には社殿を造営している。子の源義家も寛治5年(1091年)、鉄製矢筒一箇と矢鏃二本を寄進。承安元年(1171年)には千葉常胤が、武運長久・家門繁栄を祈願し、社殿の修理を行う。
源頼朝は治承4年(1180年)、太刀一振りを奉納。続いて文治5年(1189年)、奥州藤原泰衡征伐のため、安達盛長を奉幣使として太刀一振・甲冑一領を寄進。建久3年(1192年)8月、当宮保護のため、府中・五井・惣社・市原・菊間・八幡郷へ禁制の制札を掲げさせ、建久4年(1193年)8月15日、天下掌握の祈願のため宮殿新造。
以降も各時代の執政者、武門に崇敬され続け、正平24年・応安2年(1369年)には足利義満が、祈願のため宮殿を造営、その後も社殿改造や神輿・御輿などの奉納を行い、正中4年・嘉慶元年(1387年)9月には一の大鳥居を寄進している。
戦国時代になり、戦乱の中で若干衰微の兆しが見られたものの、天正19年(1591年)11月、徳川家康が神領150石を寄進、以降は徳川将軍家の厚い崇敬を受けることになり、再び興隆する。明治に至るまで大名と同等の10万石の格式を与えられたという。
明治4年(1871年)11月20日には郷社に、明治26年(1893年)4月24日には県社に列す。昭和43年(1968年)、本社の別宮として辰巳台神社が祀られた。
室町時代中期の建立(再建)となる本殿が国の重要文化財に指定されているほか、拝殿、御輿、大太刀、当世具足11領が県指定有形文化財、夫婦銀杏が県指定天然記念物、市原の柳楯神事が県指定無形民俗文化財となっている。
秋季大祭が旧暦8月15日に行われる。当日、子育て祈願や虫封じなど子供に関する祈願を受ける習わしがある。また、神輿渡御祭がある。10月には八幡宿祭で、フリーマーケットなどが開催される。
また旧暦9月30日には神立祭(かみたちさい)があり、未婚の子女を持つ家が参拝し良縁を祈る風習がある。当宮ではこの日を、神が出雲へ旅立つと伝え、出雲の地で全国より集まった神々が神議りをし、縁談を取り持つと伝えられている。
【ご利益】
子育て、良縁・縁結び、厄除、武運長久

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[電話]0436-41-2072
飯香岡八幡宮(いいがおかはちまんぐう)は、千葉県市原市八幡にある神社。上総国総社で、近代社格では県社。子育て八幡宮と呼ばれることもある。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は、誉田別尊、息長帯姫尊、玉依姫尊ほか7柱。八幡としては、筥崎宮と同じタイプの八幡神を御祭神としているのが特徴。
鎮座地は元は六所御影神社と言った。第12代景行天皇40年、日本武尊が東征の時、六所御影神社で休息した。その際、社人が尊に食事を捧げたところ、飯の香りを賞した故事により、御影山を飯香岡(いいがおか)と呼ぶことになったという。
天武天皇の時代、白鳳4年(675年)、勅使桜町季満・奉幣使菅原時春が下向し、神殿を飯香岡に創建して誉田別尊以下三神を奉斎する。その際、勅使桜町季満卿が詠んだ和歌として、下記が伝わっている。
君がため今日植ゑそへしちちの木に幾世へむとも神やどるらむ天平勝宝元年(749年)に社殿を造営し、天平宝字3年(759年)には勅命により一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮となり、国府総社と称せられた。ただし、上総国総社は市原市惣社の戸隠神社との説もある。
しかし、当社が中世以降、総社機能を有していたことは間違いないという。その後も数度の社殿造営を経て、寛弘5年(1008年)には源頼光により社殿が造営される。
鎮守府将軍源頼義は康平7年(1064年)、造営料として米1000石寄進、治暦元年(1065年)には社殿を造営している。子の源義家も寛治5年(1091年)、鉄製矢筒一箇と矢鏃二本を寄進。承安元年(1171年)には千葉常胤が、武運長久・家門繁栄を祈願し、社殿の修理を行う。
源頼朝は治承4年(1180年)、太刀一振りを奉納。続いて文治5年(1189年)、奥州藤原泰衡征伐のため、安達盛長を奉幣使として太刀一振・甲冑一領を寄進。建久3年(1192年)8月、当宮保護のため、府中・五井・惣社・市原・菊間・八幡郷へ禁制の制札を掲げさせ、建久4年(1193年)8月15日、天下掌握の祈願のため宮殿新造。
以降も各時代の執政者、武門に崇敬され続け、正平24年・応安2年(1369年)には足利義満が、祈願のため宮殿を造営、その後も社殿改造や神輿・御輿などの奉納を行い、正中4年・嘉慶元年(1387年)9月には一の大鳥居を寄進している。
戦国時代になり、戦乱の中で若干衰微の兆しが見られたものの、天正19年(1591年)11月、徳川家康が神領150石を寄進、以降は徳川将軍家の厚い崇敬を受けることになり、再び興隆する。明治に至るまで大名と同等の10万石の格式を与えられたという。
明治4年(1871年)11月20日には郷社に、明治26年(1893年)4月24日には県社に列す。昭和43年(1968年)、本社の別宮として辰巳台神社が祀られた。
室町時代中期の建立(再建)となる本殿が国の重要文化財に指定されているほか、拝殿、御輿、大太刀、当世具足11領が県指定有形文化財、夫婦銀杏が県指定天然記念物、市原の柳楯神事が県指定無形民俗文化財となっている。
秋季大祭が旧暦8月15日に行われる。当日、子育て祈願や虫封じなど子供に関する祈願を受ける習わしがある。また、神輿渡御祭がある。10月には八幡宿祭で、フリーマーケットなどが開催される。
また旧暦9月30日には神立祭(かみたちさい)があり、未婚の子女を持つ家が参拝し良縁を祈る風習がある。当宮ではこの日を、神が出雲へ旅立つと伝え、出雲の地で全国より集まった神々が神議りをし、縁談を取り持つと伝えられている。
【ご利益】
子育て、良縁・縁結び、厄除、武運長久

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