式内社の隠岐国総社、開拓神を祀りその末裔が現神主家、御霊会風流
[住所]島根県隠岐郡隠岐の島町下西713
[電話]08512-2-0571

玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)は、島根県隠岐郡隠岐の島町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 山陰道神 隠岐国 周吉郡「玉若酢命神社」に比定される式内社(小社)。隠岐国総社で、近代社格では県社

当社は隠岐諸島島後(どうご)の旧西郷町の西郊、甲尾山麓の甲野原に鎮座するが、甲野原は「国府の原」の転化であり、当地は古代から隠岐国の中心地。

玉若酢命を主祭神とし、大己貴命須佐之男命稲田姫命事代主命須世理姫命を配祀する。

社伝によると、第12代景行天皇が皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であるという。

玉若酢命は、この島の開拓にかかわる神と考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が玉若酢命の末裔とされる。

創建年代は不詳。寛文7年(1667年)の成立と言われる『隠州視聴合紀 巻之二』の下西村の条には「(当社の)社司を国造と云ふ。渠(かれ)が言に曰く。天武天皇(在位:673年-686年)の勅命ありて之を奉ず」と記されている。

『日本三代実録』貞観13年(871年)閏8月29日の条に正六位上蕤若酢神の神階を従五位下へ陞叙するという記事があるが、蕤若酢神を当社のこととされる。

また、同島に鎮座する有木神社に合祀されている総神社が隠岐国総社との説もある。

『吾妻鏡』建久4年(1193年)12月20日の条では、隠岐国地頭として佐々木定綱が任じられているが、以後、当地は佐々木氏の直轄領とされた。

当社棟札写や『隠岐家古文書抄録』の内容から、応安7年(1374年)以後、当社の造営は絶えず守護もしくは守護代によって行われたことがわかる。この体制は戦国時代末期まで続いた。

弘治3年(1557年)7月4日の「惣社五月五日祭礼立用注文案」によれば、東郷・飯田・犬来の3地域の公文が連盟で当社へ納めるべき費用の内容と数量を確認し、後述の現在まで続く御霊会がこれら周辺村落の寄進で行われていた。

『隠州視聴合紀』『隠岐国神名帳』『隠州神名帳』には「正一位玉若酢大明神」と記され、同じ隠岐の島町の北部の旧五個村郡に鎮座する隠岐国一宮水若酢神社の正三位よりも神階が上であった。

『隠州視聴合紀 巻之二』の下西村の条では「北の高原に惣社と號して大社あり。花表・瑞籬・拝殿・本宮美しくして、且つ舊りたり。四方の松杉皆大にして、霊場他に異なり」と江戸時代初期の当社の様子を伝えている。

明治5年(1872年)に県社へ列格。昭和10年(1935年)4月30日には、社家に伝わる駅鈴2個と隠伎倉印1個が国の重要文化財に指定されている。

さらに平成4年(1992年)1月21日に本殿・随神門・旧拝殿・社家億岐家住宅などが国の重要文化財に指定された。

境内にある杉の巨木・八百杉(やおすぎ)で知られる。樹齢は1000年とも2000年以上とも。「玉若酢命神社の八百スギ」として、国の天然記念物

若狭国からきた八百比丘尼が参拝の記念に植え、800年後の再訪を約束したことから八百杉と呼ばれるようになったと伝えられる。

当社の北西側の丘陵には、玉若酢命神社古墳群がある。

例祭は6月5日。御霊会(ごれい)、御霊会風流などと呼ばれ、神馬入れや流鏑馬の行事が行われる。

当日、下西、西郷、原田、有木、大久、東郷、飯田、加茂の8地区は、それぞれ禊をさせた馬の鞍に幣を立て、別に神輿も仕立てて道楽を奏しながら当社へ参集する。

隠岐島後三大祭りの一つ、県指定無形民俗文化財。

【ご利益】
厄除け、縁結び、夫婦円満・和合、子孫繁栄
玉若酢命神社 - 式内社の隠岐国総社、開拓神を祀りその末裔が現神主家、御霊会風流
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玉若酢命神社の御朱印