源義家が戦勝祈願を行った“観音”さま、出羽国三宮の式内古社
[住所]山形県酒田市山楯三之宮46
[電話]0234-52-2700

小物忌神社(おものいみじんじゃ)は、山形県酒田市山楯にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 出羽国 飽海郡「小物忌神社」に比定される式内社(小社)の論社。出羽国三宮で、近代社格では県社

御祭神は、級長津比古命・級長津比売命・豊受比売命。創建年代は不詳。社伝では第12代景行天皇の時代に武内宿禰が官籍に載せたとされている。

大正2年(1913年)に刊行された『飽海郡誌 巻之六』によれば、もとは「三之宮大座明神」と称し、古来より鳥海山大物忌神社の第3王子であるとされた。

鳥海山大物忌神社が「春物忌」を行った後に当社においても3日間の「物忌」を行うのが慣わしになっていた。ちなみに、第2王子とされたのが、二宮である城輪神社

酒田市には飛島に同名神社があり、式内社「小物忌神社」の論社。式内社は、元慶2年(878年)に従五位下勲七等の神階に昇叙され、翌々年の同4年(880年)に更に従五位上に昇叙された「袁物忌神」に相当すると見られている。

この昇叙は、秋田夷乱(878年からの元慶の乱)で、朝廷軍が敗退したのを受け、占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、月山神、小物忌神の三神の神気が賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出たことによる。

『山形縣神社誌』では、寛治5年(1091年)、源義家が東征の際、賊軍の勢いが強く戦が不利になったため、家臣の首藤主馬を大物忌神社と当社に使わして戦勝を祈願させた。

やがて敵陣を陥落させた後、大刀と鏑矢を奉納した、との社伝を紹介している。

16世紀前期には、この地方の領主武藤氏一門の砂越(さごし)城主に社領を没収され、天正年間(1573年-1593年)には兵火により社殿が焼失し、荒廃していた。

『風土略記』には、兵火に罹って社殿神体が焼失し、残った台座を新殿に安置したので「大座明神」と呼ばれた、との言い伝えが記載されている。『風土略記』では、この説は否定している。

江戸時代に入り、元文元年(1736年)、庄内藩主酒井氏により復興された。

『出羽風土略記』によれば、社家も無く、三之宮村の村役人が守護してきたが、山楯村の長久寺が別当となって、宝暦9年(1759年)に経堂を建て、1宇の仏壇を構えて念仏修行の場としたと言う。

さらに観音とのみ称して社号を捨てたため、公儀の諸国神社調査からも洩れてしまったとされる。

『飽海郡誌 巻之六』によれば、明治9年(1876年)に新たに三神を祀り、社号を復した。同年2月24日、村社に列格、同年11月11日、郷社に列せられると同時に大物忌神社の摂社に指定された。

しかし、明治32年(1899年)3月26日に社殿が焼失。すぐに再建に着手し、明治34年(1901年)11月24日に竣功、遷宮式を行った。明治35年(1902年)3月25日、県社に列せられた。

当社の例祭は8月17日。なお、式内社「小物忌神社」の論社は他に、同市内麓の飛澤神社、飽海郡遊佐町の劔龍神社、鶴岡市馬町の椙尾神社がある。

【ご利益】
厄除け・心願成就・除災招福・縁結び・交通安全・病気平癒など(公式HP
小物忌神社(山楯) - 源義家が戦勝祈願を行った“観音”さま、出羽国三宮の式内古社
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小物忌神社(山楯)の御朱印