甲斐武田氏滅亡を予言するような社地の鳴動、信玄ゆかりの八幡
[住所]山梨県山梨市北654
[電話]0553-23-5390

大井俣窪八幡神社(おおいまたくぼはちまんじんじゃ)は、山梨県山梨市にある神社。近代社格では県社。御祭神は、誉田別尊足仲彦尊息長足姫尊。参拝すれば、御朱印を頂ける。

創建当初は大井俣神社と称していたが、後に現在の窪の地に移したため大井俣窪八幡神社、窪八幡神社、あるいは単に窪八幡といわれるようになった。別当寺は普賢寺。

由緒によれば、清和天皇の勅願により、貞観元年(859年)に宇佐八幡宮が勧請されたのが始まり。当初は笛吹川の中島の大井俣の地に建立され、後に現在地に遷座した。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 甲斐国 山梨郡「大井俣神社」に比定される式内社(小社)の論社とされる。

他の論社などに、山梨市小原西の大井俣神社、甲府市川田町の二宮神社、北杜市長坂町の諏訪神社がある。

一帯は中世に八幡郷が成立。戦国期には甲斐国守護武田氏の崇敬を集め、本殿は応永17年(1410年)に甲斐守護武田信満が再建した。

甲斐国の国府あるいは国分寺の守護神である国府八幡宮は、後世に府中八幡宮となるが、それ以前は当社がその役割を担ったと考えられる。

永正13年(1516年)、駿河国今川氏が甲斐西郡の国衆大井氏に加担して甲斐国内に侵攻し、この際の兵火により社殿の多くを消失し、現存する建造物の多くはこの後に再建された。

当社本殿は永正16年(1519年)に甲斐守護武田信虎により造営された。

これは大永2年(1522年)に造営された山梨市大工の天神社本殿と一連のもので、両社は古代条里制を利用した東西中軸線によって結ばれ、建築様式にも共通性が見られる。

信虎のみならず、その子の武田晴信(武田信玄)の崇敬も篤い。天文8年(1539)には、父信虎に代わり社参。自身のみならず、夫人の参拝や、天文22年(1553年)には拝殿の再建を行っている。

ただし、現存の拝殿は信虎の建立ともされる。

信玄死後の天正9年(1581年)、社地が鳴動した。それにより、本殿背後の八本杉の一本が枯死する。

武田氏の滅亡はそれからわずか3ヶ月後の翌天正10年3月。あたかも、崇敬厚かった武田氏滅亡を憐れみ、予言するかのよう。

本殿、拝殿、鳥居や、摂社の若宮八幡神社の本殿、拝殿、複数の末社の本殿などが国の重要文化財に指定されている。

その中には、正面の小川に架橋された石橋も含まれ、これは天文4年(1535年)、高遠石工による造立の銘を持つ。

また、戦国期の造立となる狛犬がある。普段は非公開だが、本殿の前に置かれていた。県の指定文化財。

例祭は10月中旬。4月には「信玄公祭り」が行われる。洋画家・須田国太郎(1891年-1961年)に「窪八幡」という作品が残る。昭和30年(1955年)8月、当社に立ち寄ったという。

【ご利益】
武運長久、厄祓い、子孫繁栄・安産、所願成就
大井俣窪八幡神社 - 甲斐武田氏滅亡を予言するような社地の鳴動、信玄ゆかりの八幡
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大井俣窪八幡神社の御朱印