国主・武田晴信の初事業がこの社の再建、平安初期創建の武田氏の氏神
[住所]山梨県韮崎市神山町北宮地1185
[電話]0551-22-1111

武田八幡宮(たけだはちまんぐう)は、山梨県韮崎市神山町にある神社。近代社格では県社。御祭神は中殿が誉田別命、左殿が足仲津彦命、右殿が息長足姫命、相殿が武田武大神。参拝すれば、御朱印を頂ける。

社伝によれば、弘仁13年(822年)に宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名(武田郷)から現社号をしたのが草創とされる。

一方で『甲斐国志』は当宮の別当寺である法善寺(南アルプス市)により、同年に空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため、神祠を構えたのを起源としている。

なお、同書では日本武尊の子(の中で、名前が近いのは建貝兒王か)である武田王が御殿を設けたことが武田の地名の由来であり、武田王が館の北東の祠を館内に移して祀ったのが武田武大神の起源としている。

甲斐国には笛吹市の石和八幡宮や山梨市の大井俣窪八幡神社など武田氏により勧請された八幡社が分布しているが、『甲斐国社記・寺記』によれば、清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行なわれた後、武田信義が当宮を氏神とし、社頭の再建などを行なったという。

歴代の甲斐国司も造営を行なったとされるが、戦国期に武田晴信(武田信玄)が天文10年12月23日(1542年1月19日)に大檀主として、嫡子である武田義信とともに再建した。この造営は国主となった晴信の最初の事業でもあった。

永禄3年(1560年)に信玄が国中の諸社に対して甲府の府中八幡宮への参勤を命じた際、当宮は甲斐国一宮の浅間神社など10社とともに参勤を免除されている。

天正10年2月19日(1582年3月23日)には、織田信長の甲州征伐に際して、武田勝頼の妻・北条夫人が勝頼の武運を祈って祈願文を捧げた。この祈願文は掛軸に仕立てられ、現在は県指定の有形文化財となっている。

武田氏の滅亡後、甲斐の領主となった徳川家康は、天正11年4月18日(1583年6月8日)に社領を安堵。また、天正年間(1573年-1593年)に、平岩親吉に命じて当社の造営を行なったとされる。

慶長9年3月23日(1604年4月22日)には境内での樹木伐採や放放、諸役の賦課などが禁止されている。寛文2年(1622年)に甲府徳川家の家老が巡見として由緒を調査し、修復料が支払われた。

また、柳沢吉保は甲府藩主の時代に修復を行なっている。安永年間(1772年-1781年)には社殿が大破して修理を行い、嘉永6年(1853年)にも修復されている。

将軍や国主の代替りの際には巡見役や役人が参詣し、国内が不穏な場合には国主からの神事執行が依頼されたという。柳沢家からは旱魃の際に雨ごいの祈祷が依頼された。

社記によれば、正月や祭礼の時には神主が甲府城の楽屋曲輪まで祈祷札を届け、甲府勤番が追手門まで出迎えたという。

本殿(附棟札5枚、旧巻斗1箇)が国の重要文化財に指定されている。末社に若宮八幡神社があり、その本殿は県の指定有形文化財。

例祭は10月14日。

武田八幡神社とも。武田信玄ゆかりの八幡社であるが、そのためか、甲府市の武田神社と時に混同される。

そのため、当宮がパワースポットとして紹介される場合があるが、その際は、往々にして、武田氏居館・躑躅ヶ崎館の跡地に創建された勝運の神・武田神社であることが多い。

【ご利益】
武運長久、国家・地域安寧、雨乞い・天気、子孫繁栄、安産
武田八幡宮
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武田八幡宮の御朱印