景行期に三輪山から勧請された、太々神楽で知られる甲斐国二宮
[住所]山梨県笛吹市御坂町二之宮1450-1
[電話]055-262-2618
美和神社(みわじんじゃ)は、山梨県笛吹市御坂町二之宮にある神社。甲斐国二宮で、近代社格では県社。御祭神は大物主命。参拝すれば、「甲斐国二ノ宮」などとある御朱印を頂ける。
三輪山を御神体とする大和国(奈良県)の大神神社から勧請され、尾上郷の杵衝神社(当社の山宮)へ遷された後に、新たに二之宮に遷座した。
『甲斐国社記・寺記』や『甲斐国志』によれば、第12代景行天皇の頃、甲斐国造の塩海足尼が勧請を行ったという。
初見史料は『日本三代実録』貞観5年(863年)6月8日条記事で、同日に従五位に叙せられ、一条天皇から二宮の号を与えられたという。
『延喜式』巻9・10神名帳には記載はないが、それに先行して資料に登場する国史見在社。ただし、東海道神 甲斐国 八代郡の式内社「桙衝神社」を当社や当社元宮の杵衡神社に比定する説がある。
他の論社に、市内八代町の鉾衝神社がある。
中世には甲斐守護の武田氏からの崇敬を受けた。文明11年(1479年)には信濃国佐久郡領主大井氏が甲斐へ侵攻しているが、この時当社も戦火に見舞われた。
武田信虎の時代、山梨郡万力郷に社領を寄進され、弘治3年(1557年)には武田晴信(武田信玄)から条目を下され、一宮・浅間神社(笛吹市一宮町)や三宮・玉緒神社(甲府市)、武田氏氏神の武田八幡宮(韮崎市)などとともに府中八幡宮への勤番役を免除された。
永禄8年(1565年)6月、武田家嫡男の武田義信家臣による太刀奉納が行われている。また、翌年の永禄9年(1566年)には、義信生母でもある信玄正室の三条夫人が具足を奉納している。
元亀4年(1573年)9月11日、家督相続直後の武田勝頼が武運長久の祈祷を命じており、天正7年(1579年)には勝頼から禁制を下されている。
武田氏滅亡後、天正10年(1582年)に織田信長と織田信忠から禁制を下され、翌年の天正11年(1583年)には徳川家康から社領安堵を受け、天正17年(1589年)に伊奈忠次の行った検地で社領が確定。
豊臣系大名時代には加藤光泰や浅野氏から社領寄進を受けている。
例祭は3月15日。神事として、戦国期から近世まで一宮と三宮の三社共同で竜王(甲斐市)の信玄堤で水防祈念を行う三社御幸(お御幸さん)が義務付けられた。
4月の第三亥日には夏御幸、11月第二亥日には冬御幸が行われた。しかし、明治になると、三社御幸が禁止された。
そこで、毎年三月初申日に行われていた山宮御幸(二宮のお御幸さん)を4月15日に変更、春期例祭として位置付けた。
戦後には一時期断絶したものの現在でも4月第1日曜に行われ、「二ノ宮美和神社の太々神楽」として県の重要無形民俗文化財に指定されている太々神楽が奉納される。
また、毎年2月8日には湯立神事が行われる。当社の湯立神事は猿田彦の祈祷舞を伴い、県内で現存する唯一の湯立神事。
神主は坂中井家で、坂名井聡翁は国学者としても知られる。木造大物主神立像が国の重要文化財に指定されている。
【ご利益】
武運長久、厄祓い、所願成就など
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美和神社(みわじんじゃ)は、山梨県笛吹市御坂町二之宮にある神社。甲斐国二宮で、近代社格では県社。御祭神は大物主命。参拝すれば、「甲斐国二ノ宮」などとある御朱印を頂ける。
三輪山を御神体とする大和国(奈良県)の大神神社から勧請され、尾上郷の杵衝神社(当社の山宮)へ遷された後に、新たに二之宮に遷座した。
『甲斐国社記・寺記』や『甲斐国志』によれば、第12代景行天皇の頃、甲斐国造の塩海足尼が勧請を行ったという。
初見史料は『日本三代実録』貞観5年(863年)6月8日条記事で、同日に従五位に叙せられ、一条天皇から二宮の号を与えられたという。
『延喜式』巻9・10神名帳には記載はないが、それに先行して資料に登場する国史見在社。ただし、東海道神 甲斐国 八代郡の式内社「桙衝神社」を当社や当社元宮の杵衡神社に比定する説がある。
他の論社に、市内八代町の鉾衝神社がある。
中世には甲斐守護の武田氏からの崇敬を受けた。文明11年(1479年)には信濃国佐久郡領主大井氏が甲斐へ侵攻しているが、この時当社も戦火に見舞われた。
武田信虎の時代、山梨郡万力郷に社領を寄進され、弘治3年(1557年)には武田晴信(武田信玄)から条目を下され、一宮・浅間神社(笛吹市一宮町)や三宮・玉緒神社(甲府市)、武田氏氏神の武田八幡宮(韮崎市)などとともに府中八幡宮への勤番役を免除された。
永禄8年(1565年)6月、武田家嫡男の武田義信家臣による太刀奉納が行われている。また、翌年の永禄9年(1566年)には、義信生母でもある信玄正室の三条夫人が具足を奉納している。
元亀4年(1573年)9月11日、家督相続直後の武田勝頼が武運長久の祈祷を命じており、天正7年(1579年)には勝頼から禁制を下されている。
武田氏滅亡後、天正10年(1582年)に織田信長と織田信忠から禁制を下され、翌年の天正11年(1583年)には徳川家康から社領安堵を受け、天正17年(1589年)に伊奈忠次の行った検地で社領が確定。
豊臣系大名時代には加藤光泰や浅野氏から社領寄進を受けている。
例祭は3月15日。神事として、戦国期から近世まで一宮と三宮の三社共同で竜王(甲斐市)の信玄堤で水防祈念を行う三社御幸(お御幸さん)が義務付けられた。
4月の第三亥日には夏御幸、11月第二亥日には冬御幸が行われた。しかし、明治になると、三社御幸が禁止された。
そこで、毎年三月初申日に行われていた山宮御幸(二宮のお御幸さん)を4月15日に変更、春期例祭として位置付けた。
戦後には一時期断絶したものの現在でも4月第1日曜に行われ、「二ノ宮美和神社の太々神楽」として県の重要無形民俗文化財に指定されている太々神楽が奉納される。
また、毎年2月8日には湯立神事が行われる。当社の湯立神事は猿田彦の祈祷舞を伴い、県内で現存する唯一の湯立神事。
神主は坂中井家で、坂名井聡翁は国学者としても知られる。木造大物主神立像が国の重要文化財に指定されている。
【ご利益】
武運長久、厄祓い、所願成就など
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