機織神の上野国九宮、中世の神歌が伝わる田遊びが残る上之宮
[住所]群馬県伊勢崎市東上之宮町甲380
[電話]-
倭文神社(しどりじんじゃ)は、群馬県伊勢崎市東上之宮町にある神社。参拝すれば、「上野国十二社」などとある御朱印を頂ける。氏子総代による授与で、社務所に電話番号が記載されている。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 那波郡「委文神社」に比定される式内社(小社)。上野国九宮で、近代社格では郷社。
当社は利根川左岸に鎮座しており、右岸に鎮座する火雷神社(上野国八宮、下之宮)に対して「上之宮(かみのみや)」と称される。
主祭神は天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと、天羽槌雄神、建葉槌命)で、「倭文神(しどりのかみ)」ともいわれる、機織・養蚕の神。
倉稲魂命、木花咲耶姫命、誉田別命、菅原道真命、大己貴命、素盞嗚命、豊受姫命、大山祇命、菊理姫命を配祀する。
社伝では第11代垂仁天皇3年の創建という。「しどり」とは「しずおり」の略で、主祭神は平絹を織る部民・倭文部(しどりべ)の氏神。
倭文部が当地に移住して氏神を祀ったとする説がある。また、『和名抄』には「那波郡委文郷」が見えるが、これを当地に見る説もある。
国史の初見は、『日本三代実録』貞観元年(859年)の「正六位上委文神」を官社に列すという記事で、同年に神階は従五位下に昇叙された。
長元3年(1030年)の『上野国交替実録帳』には「正三位委文明神社」と記されるとともに「向殿壱宇、間垣壱廻、鳥居壱基」と記載がある。
また『上野国神名帳』では、総社本(総社神社所蔵・御神体)では鎮守10社の9番目、一宮本(一之宮貫前神社所蔵)では鎮守12社の11番目に「従一位倭文大明神」と記載されている。
南北朝時代成立の『神道集』では「九宮ヲハ那波ノ下ノ宮ニ、少智ノ大明神ト申ス」と記載があることから、当社は上野国の九宮であったと見られている(「下ノ宮」は誤記と見られる)。
当社には祀官として真下氏がいたが、戦国時代の兵火で社殿は焼失、社家も離散したという。
その後江戸時代に入り、寛永年間(1624年-1644年)に慈眼寺が別当となり、慶安元年(1648年)に朱印地10石が与えられた。
社殿は享保12年(1727年)に再興されたが、慶応2年(1866年)に焼失。
明治維新後、郷社に列した。また、大正14年(1925年)に神饌幣帛料供進神社に指定された。現本殿は流造銅板葺で、明治13年(1880年)の再建である。
例祭は4月16日で、服飾初祭。1月14日に田遊祭がある。
田遊び(たあそび)で、通常とは違い、田植えの模擬所作こそ伴わないものの、その神歌は中世にまで遡るとされ、市の重要無形民俗文化財に指定されている。
慶安元年(1648年)を初めとして9通の朱印状(所領給付の発給書)が伝わり、市の重要文化財に指定されている。
【ご利益】
機織り、ファッション、服飾・紡織、おしゃれなど
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倭文神社(しどりじんじゃ)は、群馬県伊勢崎市東上之宮町にある神社。参拝すれば、「上野国十二社」などとある御朱印を頂ける。氏子総代による授与で、社務所に電話番号が記載されている。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 那波郡「委文神社」に比定される式内社(小社)。上野国九宮で、近代社格では郷社。
当社は利根川左岸に鎮座しており、右岸に鎮座する火雷神社(上野国八宮、下之宮)に対して「上之宮(かみのみや)」と称される。
主祭神は天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと、天羽槌雄神、建葉槌命)で、「倭文神(しどりのかみ)」ともいわれる、機織・養蚕の神。
倉稲魂命、木花咲耶姫命、誉田別命、菅原道真命、大己貴命、素盞嗚命、豊受姫命、大山祇命、菊理姫命を配祀する。
社伝では第11代垂仁天皇3年の創建という。「しどり」とは「しずおり」の略で、主祭神は平絹を織る部民・倭文部(しどりべ)の氏神。
倭文部が当地に移住して氏神を祀ったとする説がある。また、『和名抄』には「那波郡委文郷」が見えるが、これを当地に見る説もある。
国史の初見は、『日本三代実録』貞観元年(859年)の「正六位上委文神」を官社に列すという記事で、同年に神階は従五位下に昇叙された。
長元3年(1030年)の『上野国交替実録帳』には「正三位委文明神社」と記されるとともに「向殿壱宇、間垣壱廻、鳥居壱基」と記載がある。
また『上野国神名帳』では、総社本(総社神社所蔵・御神体)では鎮守10社の9番目、一宮本(一之宮貫前神社所蔵)では鎮守12社の11番目に「従一位倭文大明神」と記載されている。
南北朝時代成立の『神道集』では「九宮ヲハ那波ノ下ノ宮ニ、少智ノ大明神ト申ス」と記載があることから、当社は上野国の九宮であったと見られている(「下ノ宮」は誤記と見られる)。
当社には祀官として真下氏がいたが、戦国時代の兵火で社殿は焼失、社家も離散したという。
その後江戸時代に入り、寛永年間(1624年-1644年)に慈眼寺が別当となり、慶安元年(1648年)に朱印地10石が与えられた。
社殿は享保12年(1727年)に再興されたが、慶応2年(1866年)に焼失。
明治維新後、郷社に列した。また、大正14年(1925年)に神饌幣帛料供進神社に指定された。現本殿は流造銅板葺で、明治13年(1880年)の再建である。
例祭は4月16日で、服飾初祭。1月14日に田遊祭がある。
田遊び(たあそび)で、通常とは違い、田植えの模擬所作こそ伴わないものの、その神歌は中世にまで遡るとされ、市の重要無形民俗文化財に指定されている。
慶安元年(1648年)を初めとして9通の朱印状(所領給付の発給書)が伝わり、市の重要文化財に指定されている。
【ご利益】
機織り、ファッション、服飾・紡織、おしゃれなど
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