上野国八宮、黄泉の国のイザナミの体に生じた八雷神を祀る下之宮
[住所]群馬県佐波郡玉村町下之宮甲524
[電話]-
火雷神社(からいじんじゃ/ほのいかづちじんじゃ)は、群馬県佐波郡玉村町下之宮にある神社。参拝すれば、「上野国十二社」などとある御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 那波郡「火雷神社」に比定される式内社(小社)。上野国八宮で、近代社格では郷社。
当社は利根川右岸に鎮座しており、左岸に鎮座する倭文神社(上野国九宮、上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称される。それぞれの地名の由来ともなっている。
主祭神は、火雷神(ほのいかづちのかみ)。火雷大神と呼ばれる。雷神、水の神、イザナミの御子神、雨乞い、稲作の守護神とされる。
『古事記』にもある黄泉の国のイザナミの体に生じた、大雷、火雷、黒雷、拆雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷の八雷神のこと。
保食命、菅原道真命、那波八郎命、火産霊命、大物主命、建御名方命、誉田別命、素盞鳴尊、高淤賀美命、宇迦之御魂命、大日孁貴命、少彦名命を配祀する。
社伝では、第10代崇神天皇元年の創建。その後第12代景行天皇の御世に東国に派遣された御諸別王(崇神天皇四世孫)も当社を祭祀したと伝える。
当社の奉斎氏族は、壬申の乱で功を成した佐味氏(佐味君)と考えられている。
国史の初見は、『日本後紀』延暦15年(796年)に賀茂神社・美和神社とともに「那波郡火雷神」を官社と為すという記事。
これら三神は、いずれも大和地方からの勧請と見られている(賀茂=高鴨神社、美和=大神神社、火雷=葛木坐火雷神社)。
『日本後紀』『延喜式』いずれにも「那波郡」と記載されるが、この郡は佐波郡(明治に佐位郡・那波郡を合併)の前身にあたる。
『延喜式』神名帳 宮中京中 宮中坐神 大膳職坐神三座の一つに火雷神社がある。当社との関連をうかがわせるが、当社と同様、葛木坐火雷神社を勧請したものとも考えられている。
長元3年(1030年)の『上野国交替実録帳』には「正二位火雷明神社」と記されるとともに、「神館壱宇、鳥居壱基、間垣壱廻」と記載がある。
また『上野国神名帳』では、総社本(総社神社所蔵・御神体)では鎮守10社の8番目、一宮本(一之宮貫前神社所蔵)では鎮守12社の10番目に「従一位火雷大明神」と記載がある。
南北朝時代成立の『神道集』では「八宮ヲハ那波ノ上ノ宮、火雷神ト申ス」と記載があることから、当社は上野国の八宮であったと見られている(「上ノ宮」は誤記と見られる)。
中世には那波氏・新田氏から崇敬され、盛時には4町四方の社域を有したが、那波氏衰退とともに当社も零落したと伝える。近世には天神信仰により「火雷天神社」と称された。明治5年(1872年)7月、郷社に列した。
本殿は三間社流造で、江戸時代の正保2年(1645年)に造営され、以後修復を繰り返して現在に至る。
例祭は4月3日。小祭が10月17日に斎行される。旧暦10月末の午の日午前0時から旧暦11月初午の日の夜明けにかけての13日間、特殊神事「麦蒔御神事(むぎまきごしんじ)」が行われる。
この神事は貞観4年(862年)に始まったといわれ、燈火を用いず微声で祝詞を奏上する。
その後は旧暦11月初午の日まで、神社四面にしめ縄を張って一切の立ち入りを禁じ、氏子も鳴り物・高声を禁じられる。
この神事は五穀豊穣と災難除けを祈るもので、古代の祭りの様子を伝える神事であるとして町の重要無形民俗文化財に指定されている。
【ご利益】
雷から身を守る、水・火防、厄災除去、五穀豊穣・商売繁盛
【関連記事】
・神社の創建年代 - 神代から、神武・神功・継体、そして昭和期まで、主な神社を順に並べた
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火雷神社(からいじんじゃ/ほのいかづちじんじゃ)は、群馬県佐波郡玉村町下之宮にある神社。参拝すれば、「上野国十二社」などとある御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 那波郡「火雷神社」に比定される式内社(小社)。上野国八宮で、近代社格では郷社。
当社は利根川右岸に鎮座しており、左岸に鎮座する倭文神社(上野国九宮、上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称される。それぞれの地名の由来ともなっている。
主祭神は、火雷神(ほのいかづちのかみ)。火雷大神と呼ばれる。雷神、水の神、イザナミの御子神、雨乞い、稲作の守護神とされる。
『古事記』にもある黄泉の国のイザナミの体に生じた、大雷、火雷、黒雷、拆雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷の八雷神のこと。
保食命、菅原道真命、那波八郎命、火産霊命、大物主命、建御名方命、誉田別命、素盞鳴尊、高淤賀美命、宇迦之御魂命、大日孁貴命、少彦名命を配祀する。
社伝では、第10代崇神天皇元年の創建。その後第12代景行天皇の御世に東国に派遣された御諸別王(崇神天皇四世孫)も当社を祭祀したと伝える。
当社の奉斎氏族は、壬申の乱で功を成した佐味氏(佐味君)と考えられている。
国史の初見は、『日本後紀』延暦15年(796年)に賀茂神社・美和神社とともに「那波郡火雷神」を官社と為すという記事。
これら三神は、いずれも大和地方からの勧請と見られている(賀茂=高鴨神社、美和=大神神社、火雷=葛木坐火雷神社)。
『日本後紀』『延喜式』いずれにも「那波郡」と記載されるが、この郡は佐波郡(明治に佐位郡・那波郡を合併)の前身にあたる。
『延喜式』神名帳 宮中京中 宮中坐神 大膳職坐神三座の一つに火雷神社がある。当社との関連をうかがわせるが、当社と同様、葛木坐火雷神社を勧請したものとも考えられている。
長元3年(1030年)の『上野国交替実録帳』には「正二位火雷明神社」と記されるとともに、「神館壱宇、鳥居壱基、間垣壱廻」と記載がある。
また『上野国神名帳』では、総社本(総社神社所蔵・御神体)では鎮守10社の8番目、一宮本(一之宮貫前神社所蔵)では鎮守12社の10番目に「従一位火雷大明神」と記載がある。
南北朝時代成立の『神道集』では「八宮ヲハ那波ノ上ノ宮、火雷神ト申ス」と記載があることから、当社は上野国の八宮であったと見られている(「上ノ宮」は誤記と見られる)。
中世には那波氏・新田氏から崇敬され、盛時には4町四方の社域を有したが、那波氏衰退とともに当社も零落したと伝える。近世には天神信仰により「火雷天神社」と称された。明治5年(1872年)7月、郷社に列した。
本殿は三間社流造で、江戸時代の正保2年(1645年)に造営され、以後修復を繰り返して現在に至る。
昭和5年(1930年)に丹那断層で発生した北伊豆地震(M7.3・震度7)によって、石段と鳥居の間に約1メートルの横ずれが生じた。この「ずれ」は町の天然記念物として保存され、現在も観察できる。
例祭は4月3日。小祭が10月17日に斎行される。旧暦10月末の午の日午前0時から旧暦11月初午の日の夜明けにかけての13日間、特殊神事「麦蒔御神事(むぎまきごしんじ)」が行われる。
この神事は貞観4年(862年)に始まったといわれ、燈火を用いず微声で祝詞を奏上する。
その後は旧暦11月初午の日まで、神社四面にしめ縄を張って一切の立ち入りを禁じ、氏子も鳴り物・高声を禁じられる。
この神事は五穀豊穣と災難除けを祈るもので、古代の祭りの様子を伝える神事であるとして町の重要無形民俗文化財に指定されている。
【ご利益】
雷から身を守る、水・火防、厄災除去、五穀豊穣・商売繁盛
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