日本武尊の妃の一人が眠る塚が地名由来、建内宿禰を祀る式内古社
武内神社(群馬県渋川市祖母島499)
[住所]群馬県渋川市祖母島499
[電話]-

武内神社(たけうちじんじゃ)は、群馬県渋川市祖母島にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 群馬郡「甲波宿禰神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

御祭神は建内宿祢命宇気母智神速須佐之男命を配祀する。例祭は4月3日、10月9日。7月25日に祇園祭がある。境内社は、天王社らしきものも含めて多数。

由緒は不詳。江戸時代までは「宿禰大明神」と称し、明治2年(1869年)に現社号に改称した。現在も、一の鳥居や二の鳥居には消えかかりながらも「正一位宿禰大明神」の額が掛かっている。

この地域には、式内社「甲波宿禰神社」の論社が複数存在し、当社以外はすべて式内社名と同一で、渋川市川島東吾妻町箱島渋川市行幸田に三社の甲波宿禰神社がある。

行幸田を除く、当社を含めた三社は、吾妻川に沿ってほぼ等間隔(およそ2.1キロ-2.2キロごと)に鎮座しており、宗像大社丹生川上神社などのような三社構成(場合によって、一つの神社)だった可能性も指摘されている。

当社号について、有力なのは、「甲波宿禰神社が宿禰大明神と略され、それが後世に宿禰から武内が想起され、社号から宿禰が消えた」というもの。

あまり異論は出ていないが、甲波が川の意(そういう意味が絶対に、全くない、という訳ではなく)、という見解とも共通して、これはおかしい。

論社はいずれも宿禰大明神と呼ばれていた。そして、いずれも明治期の神仏分離などの影響で、近代になってから現社号へと変わった。

そうした中で、当社だけが式内社名を選ばずに「武内」を冠し続けている。

当時の近隣の動き、また式内社への復古という風潮から考えても、特段のいわれがなければ、当社も「甲波宿禰神社」と改称していたとしても何も不都合がないわけだ。

そうではなかったのだから、他の論社とは違う、「特段のいわれ」があったのではないだろうか。

吾妻川沿い三社の中でも中間点に位置する当社のある祖母島(うばしま)は、他の川島、箱島と違い、比較的新しい「島」の可能性がある。

伝承では、祖母島は、祖母塚と、島の郷(川島、箱島など)を合わせて名付けられたものだという。

祖母塚は、当地まで遠征に来た日本武尊が、沼田で娶った御諸別王の女、上嬬媛(かずまひめ)の墓だという。

日本武尊と上嬬媛の間には厳鼓君(いわづつみのきみ)が生まれ、おそらく日本武尊が去った後、上嬬媛と厳鼓君の母子は島の郷に住んだと言われる。

上嬬媛の死後、祖母塚が先にでき、母子にもゆかりのある島の郷にちなんで、当地が祖母島として定着したものと思われる。

ちなみに、年齢の奇怪さを置いておくとして、日本武尊と武内宿禰は、あまり絡みがないからぴんと来ないかもしれないが、ほぼ同時代人。

このあたりに当地や当社と武内宿禰の関わりがあるのかもしれない。

しかし、御祭神名は『古事記』での表記である「建内」に対して、社号は一般的に幅広く使われている「武内」である、その理由は不明。

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