上野国四宮、宝亀2年(771年)創建の吾妻川沿い三社の一社
[住所]群馬県渋川市川島1287
[電話]0279-232-9098
甲波宿禰神社(かわすくねじんじゃ、甲波宿祢神社)は、群馬県渋川市川島にある神社。参拝すれば、「式内社」「上野四ノ宮」などと入った御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 群馬郡「甲波宿禰神社」に比定される式内社(小社)の論社。上野国四宮で、近代社格では郷社。
後述の事情で、川島甲波宿禰神社とも。御祭神は、速秋津彦神・速秋津姫神。大山祇神・誉田別神を合祀し、大物主神・倉稻魂神・水波之売神を配祀する。
本殿左から後方には 天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照皇大神碑や末社群、神明社、諏訪神社、北辰明神、稲荷神社などが祀られている。
宝亀2年(771年)の創建と伝わる。上野国十二社の「四の宮」として古くから皇室の崇敬篤く、元慶4年(880年)に従四位下となる。『上野国帳』に正一位とある。明治15年(1882年)に郷社に列す。
吾妻川に沿って鎮座し、川の信仰が認められることから、「甲波」は川、「宿禰」は「直根」で、川の本流を意味し、川を神格化し、国司らによって祀られた神社と考えられる場合がある。
ただ、川であれば川の字を使えばいいし、「甲波」そして、「宿禰」と組み合わせると、どうしても人名に思えてくる。後述するように、当地近辺には宿禰の代表格でもある武内宿禰も登場してくる。
もとは吾妻川のほとりに鎭座していたが、天明3年(1783年)の浅間山噴火で流出、同5年(1785年)9月に現社地に再建された。
市指定重要文化財に「甲波宿祢神社の算額」がある。
当社拝殿の中に掲げられているもので、利根郡片品村出身の千明慶悦という和算家が渋川・北群馬・利根及び吾妻の弟子たち六十余人の協力を得て、安政3年(1856年)に奉納したもの。
算額の内容は、直角三角形の底辺の長さを求めるもので、自問自答し、その解答を付ける形式をとっている。
和算の問題としては比較的簡単なものであるが、問題を解くのに代数を使っているのが特徴。この地域にも和算研究の一団がいたことを示す資料となっている。
例祭は10月9日に近い日曜日。
市指定重要無形文化財に「川島の獅子舞」がある。境内社の諏訪神社の例祭に奉納され、悪魔払いの神事として、氏子の無病息災を祈願してきたもの。
鹿島流といわれる一人立ち獅子で、雄獅子・雌獅子・子獅子・天狗・おかめ・棒術師・笛師・謡方によって構成される。
舞は天明3年の浅間山噴火により中断され、天保年間(1831年-1845年)の頃に再興されて以来、代々氏子の長男に受け継がれ、現在は川島獅子舞保存会が当社の秋季例祭に奉納している。
この地域には、式内社「甲波宿禰神社」の論社が複数存在し、そのうち、二社が当社と同一社号、東吾妻町箱島と渋川市行幸田に甲波宿禰神社がある。
また、武内宿禰(ここでは珍しく『古事記』表記の建内宿禰が使われる)を祀る渋川市祖母島の武内神社も論社。
行幸田を除く、当社を含めた三社は、吾妻川に沿ってほぼ等間隔(およそ2.1キロ-2.2キロごと)に鎮座しており、宗像大社や丹生川上神社などのような三社構成(場合によって、一つの神社)だった可能性も指摘されている。
また、当社では頻繁に雨ごい行事が行われていた記録もあり、この吾妻川沿い三社の甲波宿禰神社の川を渡った北方にある標高931メートルの雨乞山と、当社及び三社の関係を指摘する向きもある。
【ご利益】
人々の罪やけがれを呑み去る神
【関連記事】
・吾妻川沿い三社 - 群馬県を流れる吾妻川沿いにある式内社「甲波宿禰神社」の論社四社
・群馬県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、群馬県に鎮座している神社の一覧
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甲波宿禰神社(かわすくねじんじゃ、甲波宿祢神社)は、群馬県渋川市川島にある神社。参拝すれば、「式内社」「上野四ノ宮」などと入った御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 群馬郡「甲波宿禰神社」に比定される式内社(小社)の論社。上野国四宮で、近代社格では郷社。
後述の事情で、川島甲波宿禰神社とも。御祭神は、速秋津彦神・速秋津姫神。大山祇神・誉田別神を合祀し、大物主神・倉稻魂神・水波之売神を配祀する。
本殿左から後方には 天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照皇大神碑や末社群、神明社、諏訪神社、北辰明神、稲荷神社などが祀られている。
宝亀2年(771年)の創建と伝わる。上野国十二社の「四の宮」として古くから皇室の崇敬篤く、元慶4年(880年)に従四位下となる。『上野国帳』に正一位とある。明治15年(1882年)に郷社に列す。
吾妻川に沿って鎮座し、川の信仰が認められることから、「甲波」は川、「宿禰」は「直根」で、川の本流を意味し、川を神格化し、国司らによって祀られた神社と考えられる場合がある。
ただ、川であれば川の字を使えばいいし、「甲波」そして、「宿禰」と組み合わせると、どうしても人名に思えてくる。後述するように、当地近辺には宿禰の代表格でもある武内宿禰も登場してくる。
もとは吾妻川のほとりに鎭座していたが、天明3年(1783年)の浅間山噴火で流出、同5年(1785年)9月に現社地に再建された。
市指定重要文化財に「甲波宿祢神社の算額」がある。
当社拝殿の中に掲げられているもので、利根郡片品村出身の千明慶悦という和算家が渋川・北群馬・利根及び吾妻の弟子たち六十余人の協力を得て、安政3年(1856年)に奉納したもの。
算額の内容は、直角三角形の底辺の長さを求めるもので、自問自答し、その解答を付ける形式をとっている。
和算の問題としては比較的簡単なものであるが、問題を解くのに代数を使っているのが特徴。この地域にも和算研究の一団がいたことを示す資料となっている。
例祭は10月9日に近い日曜日。
市指定重要無形文化財に「川島の獅子舞」がある。境内社の諏訪神社の例祭に奉納され、悪魔払いの神事として、氏子の無病息災を祈願してきたもの。
鹿島流といわれる一人立ち獅子で、雄獅子・雌獅子・子獅子・天狗・おかめ・棒術師・笛師・謡方によって構成される。
舞は天明3年の浅間山噴火により中断され、天保年間(1831年-1845年)の頃に再興されて以来、代々氏子の長男に受け継がれ、現在は川島獅子舞保存会が当社の秋季例祭に奉納している。
この地域には、式内社「甲波宿禰神社」の論社が複数存在し、そのうち、二社が当社と同一社号、東吾妻町箱島と渋川市行幸田に甲波宿禰神社がある。
また、武内宿禰(ここでは珍しく『古事記』表記の建内宿禰が使われる)を祀る渋川市祖母島の武内神社も論社。
行幸田を除く、当社を含めた三社は、吾妻川に沿ってほぼ等間隔(およそ2.1キロ-2.2キロごと)に鎮座しており、宗像大社や丹生川上神社などのような三社構成(場合によって、一つの神社)だった可能性も指摘されている。
また、当社では頻繁に雨ごい行事が行われていた記録もあり、この吾妻川沿い三社の甲波宿禰神社の川を渡った北方にある標高931メートルの雨乞山と、当社及び三社の関係を指摘する向きもある。
【ご利益】
人々の罪やけがれを呑み去る神
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