赤城神社の中で唯一「二宮」を称する古社、上野・群馬の赤城山麓に鎮座
[住所]群馬県前橋市二之宮町886
[電話]027-268-0276
二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)は、群馬県前橋市二之宮町、榛名山・妙義山とともに上毛三山の一つである赤城山麓にある神社。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 勢多郡「赤城神社」に比定される式内社(名神大社)の論社で、上野国二宮。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の、本宮と推測されるうちの一社である。主祭神は、豊城入彦命、大己貴尊。これは、日光と宇都宮の二つの二荒山神社の御祭神でもある。
創建は不詳。赤城南麓には豊城入彦命を祖とする上毛野氏がいたと伝わっており、当社の創建に関係したともいわれる。当社の東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っている。
六国史には「赤城神」に対する数度の神階奉授の記録がある式内社「赤城神社」の論社は他に、赤城山山腹の三夜沢赤城神社、山頂の大洞赤城神社、横室赤城神社がある。
鎌倉時代、建久5年(1194年)、源頼朝による社殿修繕の記録がある。
戦国時代に入ると、当社は南方氏(北条一門)により破却され衰亡した。再興は江戸時代に入ってからで、三夜沢赤城神社(西宮)の影響下であった。大胡城に入った牧野氏により社殿が整備された。
明治時代には郷社に列した。三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて国幣中社にしようとする動きもあったが、終戦により実現はしなかった。
数多い赤城神社のなかでも唯一「二宮」を称するのが特徴である。
そのため、一宮・二宮が制定された頃は当社が中心となっていたと見られ、遅くとも鎌倉時代には当社は里宮として赤城信仰の中心をなしていたと推測されている。
一宮である一之宮貫前神社との間に、興味深い伝承が残っている。
ある時、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので、思案の末、貫前の神は外国から来て機織が上手であるから持っているであろうと、頼み、借りて織りあげた。
赤城の神は貫前の神の技術に舌を巻き、このような技術をもった神が他国へ移っては困るので、一宮の地位を貫前の神に譲り、自身は二宮になった、という。
現在の赤城信仰の中心は山腹の三夜沢にあるが、三夜沢と当社との関係は深く、4月・11月(12月)の年2回両社間での神輿の渡御がある。市重要無形民俗文化財指定。
三夜沢にある古代祭祀遺跡の「櫃石」は当社の真北に位置している。
なお、三夜沢と当社との間には近戸神社数社が鎮座する。この「近戸」は「本社の社領域の入り口」を意味するとされ、神輿渡御の際に休憩した地として月田・深津の近戸神社があったという。
元和9年(1623年)の銘がある梵鐘は、赤城山神宮寺に奉納されたもので、御神幸の時のみ撞かれる。県の重要文化財。
御神幸の他、太々神楽、式三番叟(附 伝授書)が市の重要無形民俗文化財に指定されている。享徳2年(1453年)の神社再興の際作られたと推定される舞楽面「納曽利面(なそりめん) 一面」が伝わる。
境内には堀と土塁がめぐらされている。中世における社地の形態をよく伝える環濠遺構であり、市の史跡に指定されている。
拝殿の左右2対4面の絵馬は、それぞれ江戸前期の前橋藩主・酒井雅楽頭と大胡藩主・牧野忠成によって奉納されたもの。
例祭は4月15日。3月・11月の最終午の日には御神事が斎行される。
【ご利益】
地域・家内の発展・平穏、縁結び
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『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 上野国 勢多郡「赤城神社」に比定される式内社(名神大社)の論社で、上野国二宮。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の、本宮と推測されるうちの一社である。主祭神は、豊城入彦命、大己貴尊。これは、日光と宇都宮の二つの二荒山神社の御祭神でもある。
創建は不詳。赤城南麓には豊城入彦命を祖とする上毛野氏がいたと伝わっており、当社の創建に関係したともいわれる。当社の東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っている。
六国史には「赤城神」に対する数度の神階奉授の記録がある式内社「赤城神社」の論社は他に、赤城山山腹の三夜沢赤城神社、山頂の大洞赤城神社、横室赤城神社がある。
鎌倉時代、建久5年(1194年)、源頼朝による社殿修繕の記録がある。
戦国時代に入ると、当社は南方氏(北条一門)により破却され衰亡した。再興は江戸時代に入ってからで、三夜沢赤城神社(西宮)の影響下であった。大胡城に入った牧野氏により社殿が整備された。
明治時代には郷社に列した。三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて国幣中社にしようとする動きもあったが、終戦により実現はしなかった。
数多い赤城神社のなかでも唯一「二宮」を称するのが特徴である。
そのため、一宮・二宮が制定された頃は当社が中心となっていたと見られ、遅くとも鎌倉時代には当社は里宮として赤城信仰の中心をなしていたと推測されている。
一宮である一之宮貫前神社との間に、興味深い伝承が残っている。
ある時、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので、思案の末、貫前の神は外国から来て機織が上手であるから持っているであろうと、頼み、借りて織りあげた。
赤城の神は貫前の神の技術に舌を巻き、このような技術をもった神が他国へ移っては困るので、一宮の地位を貫前の神に譲り、自身は二宮になった、という。
現在の赤城信仰の中心は山腹の三夜沢にあるが、三夜沢と当社との関係は深く、4月・11月(12月)の年2回両社間での神輿の渡御がある。市重要無形民俗文化財指定。
三夜沢にある古代祭祀遺跡の「櫃石」は当社の真北に位置している。
なお、三夜沢と当社との間には近戸神社数社が鎮座する。この「近戸」は「本社の社領域の入り口」を意味するとされ、神輿渡御の際に休憩した地として月田・深津の近戸神社があったという。
元和9年(1623年)の銘がある梵鐘は、赤城山神宮寺に奉納されたもので、御神幸の時のみ撞かれる。県の重要文化財。
御神幸の他、太々神楽、式三番叟(附 伝授書)が市の重要無形民俗文化財に指定されている。享徳2年(1453年)の神社再興の際作られたと推定される舞楽面「納曽利面(なそりめん) 一面」が伝わる。
境内には堀と土塁がめぐらされている。中世における社地の形態をよく伝える環濠遺構であり、市の史跡に指定されている。
拝殿の左右2対4面の絵馬は、それぞれ江戸前期の前橋藩主・酒井雅楽頭と大胡藩主・牧野忠成によって奉納されたもの。
例祭は4月15日。3月・11月の最終午の日には御神事が斎行される。
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